私が醜いものを最高に美しいと感じる理由

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photo credit: surrealisticamente desesperado via photopin (license)

私の愛しいアップルパイへ

「醜いものこそ最高に美しい」なんて言うとあなたは取り乱して私の熱をはかりながらお医者さまを呼ぼうとするかもしれません。

ご安心ください。私はまともです。しかし、私は醜いものを愛しています。醜いものは美しいからです。

「美しい」とはなにか?(それは合理的とは別物だ)

「美しい」ということを「合理的」と解釈する方がいますが、これは陥りがちな罠です。

バランスのとれているもの、精巧につくられたもの、整然としているもの、必要十分なもの、調和のとれているもの。「美しい」に鈍感だと、安易にこういった合理性のなかに美しさを見出そうとします。合理的であることは理解しやすいからです。

おお!しかし、考えてもみてください!合理的であることにいったいかほどの芸術的価値が眠っているのか!合理的だなんて、そんなものは科学者に任せておけばいいのに!

私が「美しい」に近い言葉だと考えているのは「合理的」ではなく「意義深い」です。表現の本質に人生というものの意義深さを感じたときに、美しいという感情が湧くからです。

夕日を美しいと感じるのは、光の合理的な反射によるものではなく、そこに世界の日常的な神秘さや人間という存在の小ささ、生命の奇跡といった意義深さを感じるからなのです。

「醜い」は人間の飾らない純粋さを教えてくれる

美しいことが意義深いことであるとすれば、醜いものが美しいということが成り立ちます。

実際、悪魔や殺人をモチーフにしたギョッとするような名画がいくつも残っているのはご存知のとおりです。ホラー映画は昔から映画のなかでも人気ジャンルの1つです。音楽も文学も同様です。

醜さが訴える美しさ、意義深さには様々なものがあります(単に綺麗なものよりもずっと!)。人生の儚さや社会への反抗、風刺、肉体の肯定、性の解放、深刻さを笑い飛ばす愉快さや皮肉など、あげればきりがありません。とりわけ私が愛する醜さは、飾らず、原始的で、純粋なものです。

人が自分を飾り立てようとせず、自分の衝動や感情や情熱に従順になったとき、いま生きることに熱狂しているとき、そこには必ずある種の醜さが宿っています。

泣きじゃくる人間や怒り狂う人間の顔は、すましたモデルの顔より綺麗ではないかもしれませんが、純粋であることによって美しいのです。

▼醜の美について興味がわいたら、以下の本がイチオシです。ずっと眺めていたくなります。

自分を解放してくれる醜の美

醜さによる原始性、純粋さは、人生の窮屈さに膿んでいた私を救ってくれました。私にとって醜さこそ自由と解放と勇気の象徴でした。それは以下の記事でお話したとおりです。

かくして私は醜いことによって美しい「醜の美」に魅入られたというわけです。

▼せっかくですから、私がただいま製作しているアルバムの中から、醜くて(それによって純粋な!)ゆかいなソングを1つお届けしましょう。まだ制作途中ですが、着実に完成に近づいています。題して「Edward」です。歌詞とともにどうぞ。

バイブロハンマー
ダンプトラック
ストラドルキャリア
アジテーター

ステンレスボルト
トラッククレーン
アスファルトケットル
ブルドーザー

はじめはチェンソー!
お次はクレーン!
続けてハンマー!
よろしいか?

アーーーーーーーー
ダラランーーーーー
ダラランーーーーー

ボンッ ヘイッ ヌンッ ハッ
ボンッ ヘイッ ヌンッ ハッ

貴下の従順なる下僕 松崎より

著者画像

システム系の専門学校を卒業後、システム屋として6年半の会社員生活を経て独立。ブログ「jMatsuzaki」を通して、小学生のころからの夢であった音楽家へ至るまでの全プロセスを公開することで、のっぴきならない現実を乗り越えて、諦めきれない夢に向かう生き方を伝えている。