音楽より先にはまったのは映画だったな

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私の愛しいアップルパイへ

私の記憶が正しければ小学校の高学年に音楽家になるという夢を持ちました。よく思い出してみると、それよりも前、小学校にあがるころに魅了されたのが映画でした。

いまでも映画はよく観ますが、なぜ先に出会っていたであろう音楽ではなく映画の方があの頃あんなにも響いたのか?そしてなぜいまは音楽なのか?についてお話しようと思います。立ち話もなんですから、こちらにお掛けください。ホットミルクでいいですよね?

映画の出演者が実在する人物であることに感動した

小学校にあがる前、5歳か6歳のころ、そのくらいの年齢の子供であれば誰でもそうであるように、ヒーローものに夢中でした。私は漫画やアニメを観ることもなく、ひたすら仮面ライダーに夢中でした。

新聞のテレビ欄の読み方が分からなかった私は一日中テレビの前に座っては仮面ライダーが登場するのを待ちわびていました。

同じ頃、恐らく最初に見たであろう映画が、アーノルド・シュワルツェネッガー主演の「ラスト・アクション・ヒーロー」でした。

そこには仮面ライダーのように覆面や仰々しい衣装を身にまとっていない素朴な主人公と、素朴な悪役がいました。そして、仮面ライダーのように超人的なキックを繰り出したり、片手が変形したりすることもない、普通の車と普通の武器でやる素朴な戦いが繰り広げられていました。

私は新しい世界に困惑しながらも、村じゅうを照らし出せるほど瞳はキラキラと輝いていました。そして、3つ上の姉に熱心にこう聞いていたのを覚えています。

「ねぇ、この人たち(俳優)は本当に存在するの?この画面の中だけでなく、実際に会える人なの?」と。

姉は鼻で笑いながら答えました。

「ハッハー、幼きjMatsuzakiはなんと愚かなことであろうことか!お笑いだわ!映画なんだから実物がいるに決まっているであろう!実際に会って目の前で中指を突き立てることも、タマを鷲掴みにすることもできるぞ!」と。

これだ!と思いました。この時の感動があなたに伝わるでしょうか。

仮面ライダーは私のなかでは所詮架空の人物でしかありませんでした。変身する前の人間が存在するのは分かっていましたが、私にとっては変身後のヒーローがいるかいないかが重要だったのです。

変身後のヒーローは現実には存在し得ない作り物であることにがっかりしていましたし、現実はそんなもんなのだろうとも思っていました。

しかし、いまテレビの中にいる素朴な、そして自在に生きている人間はそのままの形で実際に存在するのです。変身前も変身後もない、素朴な私のような人間が自分の意志に従って泥臭く我武者羅に生きている。窮屈な世界に一筋の光が差し込んできました。

映画の中の人物には嘘がありません。映画のなかでは映っていなければ存在しないのと同じですから、映画の中の人物はたとえ嘘をつくときであっても必ず嘘と分かるように嘘をつきます。本心を言うときも、建前を言うときも、見る側には必ずそれと分かるように立ち振る舞います。

それは私が心から渇望していた世界でした。自在に生きている人間たちの世界です。自分に正直な愛すべき野郎ども。そんな人間が本当にこの同じ世界にいることに、喜びを隠しきれませんでした。

映画は作品の中で人間そのものを使える究極の表現形式である

この世には様々な表現形式があります。絵画、音楽、映画、文学。その中でもとりわけ新しい技術である映画には、特別な強みを蔵しています。

それは他の表現形式にはない「作品の中で現実世界における人間そのものを使える」ことです。これは映画にしかない、他の表現形式とは一線を画す映画だけの特別な価値です。芸術は突き詰めれば必ず”人間を描写すること”を志向します。そのなかにおいて、この強みはほとんど”チート”と言っていいほどの特徴です。

文学と比較すると、たしかに文学には心理描写を得意とする特別な強みがあります。しかし、その欠点を補って余りあるほど、現実世界を背景に人間そのものを使える映画は大きな魅力を秘めています。

漫画(もしくはアニメ)と比較すると、漫画には心理描写に加えて「強調」「省略」「擬人化」によるデフォルメを可能とする特別な強みがありますが、しかしそれでも生の人間そのものを使える映画にはやはり漫画では決して代替できない魅力があります。

もちろん当時は子供ですから、実際にこのような分別があったわけではありませんが、自分とまったく同じ次元で人間そのものが使われている映画に直感的に大きな魅力を感じました。

私はすでにその頃には人の顔色を伺いながらビクついて生きている自分をしっかりと自覚していました。そして、人に与える印象に気を配りながらも、窮屈さと歯がゆさを感じて、将来に何ともいえない不安を抱いていました

偽りの仮面をつけなければ生きながらえることができない。それはこの先いつまで続くのだろうか?これは当時から私の抱える一番大きな悩みの1つでした。

しかし、映画の中では現実と同じ世界で、嘘も誠も含めて隠し事のない自在に生きている人間が、ほとんど生の状態で画面上に現れるのです。そこに私は安堵と希望を同時に抱きました。今の私がどうであれ、少なくともこの同じ世界には、自分のように窮屈さすら隠し通している人間とは対極の、つまり自在に生きる人間がいるという事実ができたのですから。

映画の「作品の中で現実世界における人間そのものを使える」特徴は、幼い私にもガツンと響きました。それは音楽よりもずっと先に、直感的に、直接的に、私に刺激を与えたのです。

映画の外に出れば俳優は役を演じているに過ぎない

とはいえ、jMatsuzaki少年も馬鹿ではありません。映画の中の人物は、俳優という職業の人間が役を演じているに過ぎないことも分かっていました。映画の中の人間も、一歩外に出れば俗人に過ぎない。奇しくもこれは初めて観た映画「ラスト・アクション・ヒーロー」のメインテーマでもありました。

私は毎晩のように映画を観る一方で、どこか一歩引いていた感覚がありました。映画はこの窮屈な現実世界においてどこまでも一時的な、美食的で現実逃避的なロマン主義でしかありえないのだと。

たとえ見た目はまったく同じだったとしても、役柄と実際の人物は異なります。映画は実際に生きている人間を生き生きと描くことに関しては究極の表現であることに違いありませんが、実際に自在に生きている人間が実在するのとは違います

ここに私の映画では決して満たされることのない衝動がありました。画面の中も外も境界線のない、役柄も私生活も境界線のない、あの「ラスト・アクション・ヒーロー」のように映画から飛び出してきたような本物の人間はいないのか?これが小学校の高学年を迎えた私にとっての大きなニーズの1つでした。

まるで本当に映画から飛び出してきたような音楽家たち

それまで、私にとって音楽家というものはゴテゴテの偽りの仮面をつけたチンケな仮面舞踏会の住人あると思い込んでいました。テレビでよく見る音楽家たちが皆が皆そうでしたから、そういうものだと思っていました。

しかし、小学生の高学年になって少し情報網が広がると、実はごく一部の例外があることが分かってきました。学校ではご法度とされている、恥ずかしげもなく自分自身を解放することも厭わない人間が一部の音楽家のなかに存在するという匂いを嗅ぎつけたのです。

人となりを見れば見るほど、ソングを聴けば聴くほど、それは確かに、まるで本当に映画のなかから飛び出してきたかのように、なりふり構わず自分自身の情熱を解放することに没頭している存在がありました。この時の安堵感があなたに伝わるでしょうか。ここで私は本当に救われたのです。

カスタネットは青い面を使うことを強制させるような、意味もわからず前ならえさせられるような、寂しさに泣き叫ぶことを甘えん坊と罵るような、道徳的秩序のために自由意志を抑圧することを美徳とするような窮屈な世界ばかりでなく、映画の中で描かれていたような燃えあがる情熱を持った嘘偽りのない人間の世界があると確信できたのです。そしてそれほどの情熱を燃やすだけの価値がこの世界には眠っているのだと希望を抱かせてくれたのです。

ドストエフスキーは「わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ」と言いましたが、この究極の悲劇からイチ抜けできたようなホッとした気分でした。

この頃、映画と音楽は私にとって生きる意味そのものになりました。映画が理想を描き、音楽はそれを実現する。そういうことで、今でも音楽だけではなく、もちろん映画も大好きです。

貴下の従順なる下僕 松崎より

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