私の愛しいアップルパイへ
「手段」が「目的」になっている
しばしば否定的な意味で使われるこの言葉ですが、私はこの言葉になんとも言えない甘美は響きを感じています。なんとも奥深い真理めいたものを感じています。なんとも自愛に満ちたこの世の原理を感じています。
情熱の持続とその矛先
私は以前、情熱を持続する方法と題して以下のようなエントリを投稿しました。
私のことが他の人より情熱的に見えるのなら、その理由は簡単です。私は情熱を持続することに、他の人より多くの時間を割いているからです。 …
情熱の持続には、心の明朗さによる精神的な安定性が必要不可欠だからです。 …
今日はこの持続された情熱の矛先について、私の考えをここに記しておきます。
情熱の矛先を知るまでの道のり
生まれてから最初の20年で得た最も貴重な知識は、我が人生の情熱の矛先が決まったことでした。私自身に固有の使命についてでした。
それは貴重な20年を捧げるに足る収穫であり、英知でした。これによって私は決してぶれることのない軸足を手に入れたわけですし、まったく手放しで人生に没頭できるようになったわけですし、この矛先を考えることによっていつでも天に昇るような幸福を感じられるようになったからです。
私の情熱の矛先は言うまでもなくかの「音楽」なるものなのですが、これを私はどんな心理状態でどのように捉えているのか、順を追って説明しましょう。
これは私の非常に個人的なストーリーですが、ここで得た教訓はあらゆる物の見かたに影響を与えるほど重要な”ものさし”になりました。このストーリーはきっとあなたに紹介する価値があると確信しているのです。
「音楽」との出会い
音楽に興味を持ち始めたのは中学3年生の頃でした。部活動が終わったのを見計らっていたかのように、かの「音楽」なるものが私に興味を持ち、気づかぬうちに私の手にギターを握らせたのです。
その頃はちょうど夏休みで、同じく音楽に興味を持っていた友人の家で、訳も分からず毎日ギターを練習したものでした。彼の部屋は清潔感に欠けていて、エアコンも無く、その上彼はテリヤキバーガーも綺麗に食べられない粗暴な人間でしたが、そんなことがまったく気にならないほどギターに没頭していました。
それから半年~1年経って高校に入学した頃、演奏だけでは満足できず、自ら音楽を創りだすことに興味を持ったのは自然の流れでした。今から10年前のことです。
この頃は、私がいったいなぜ音楽なんてことに打ち込んでるかなんて考えもしませんでしたし、私がなぜこんなにも音楽に魅了されているのかさっぱり理解できませんでした。ただそれが何よりも楽しいことだったのは真実でした。
そして知性が宿る
高校生くらいになると、さすがの私にも知性が宿ります。私がなぜ音楽に打ち込まずにいられないのか。その目的は何なのか。この頃から私はテンガロンハットをかぶった気難しい紳士のように思索し始めました。
最初は人並みに「メッセージを届けるため」などと思い込むことにしましたが、それがいかに矛盾を抱えた論理であるかは高校生の私にもすぐに理解できました。
メッセージを届けるのはどう考えたって言葉の本分であって、自分の考察や感情や情景を描写する手段としては、「不定の言語」たる音楽はあまりに不完全でした。
私のこの湧き上がるような情熱の源泉が、”愛のささやき”や”震える闘志”とはなんら媒介関係を持っていないことは明らかでした。そして私は途方に暮れるのです。
大いなる深淵をのぞく
高校を卒業する頃も、私はまだ今ひとつ状況が飲みこめていませんでした。音楽を創りだすことに完全に惹かれていながら、その理由も目的も何も分からなかったからです。
そしてついに大いなる深淵をのぞき込み始めます。どうにかしてこの”創造”が持つ魔力の源泉を知ろうとしたのです。
哲学者や思想家の美学を読み進める中で、”芸術的な活動”がその対極にある”科学的な活動”とともに、人類全体に大きな流れを作りだしているように感じ始めました。
この時にのぞき込んだ深淵はジワジワと私を喰い潰し、その数年後に人生に最大の挫折と無力感を味わわせることになるのですが、それはまた別の話です。
いずれにせよ、とにかくこの時に思索したことは実に崇高で荘厳な探究のように思えましたし、この途方もないミッションに立ち向かうことで得られる矜持こそ、私を音楽に、引いては芸術に突き動かす原動力なのだと感じていました。
この”芸術”と”科学”による単純な図式と、人類全体を取り巻くスケールの大きな仕事は、私を表面的に納得させるのには十分でした。
情熱の矛先を見出す
それから2~3年後のことです。私が20歳になった頃、上述の崇高なる思索は結局のところある種の演技に過ぎないことを悟りました。何か小難しい考えを展開することは徐々に私の足かせになっていって、私にとって真なる原理ではないと感じ始めました。そして、これらの思索を一旦全て捨て去ることを決めたのです。
きっかけは単純です。この頃には、あの暑苦しい夏休みの日、彼の清潔感の欠ける部屋で無我夢中でギターを練習していた頃に感じていた、底知れない楽しさや幸福感がまったく無くなっていることに気づいたからです。
そして私は原点に立ち戻ります。それはあるとき急に理解したのか、それとも少しずつ考えがまとまっていったのかは定かではありません。とにかく、私は確信の持てる答えを見出しました。
私は音楽が好きで、作曲に生きがいを感じていて、それだけが真実で、それが全てなのだと。
何か明確な目的や小難しい思索を持たずとも、私は”作曲”のことを手放しで愛していて、ただそれだけが目的なのだと。
作曲すること自体が手段であり、同時に目的であり、頭のてっぺんからつま先までそれ以外は何もないのだと。
マイクのハウリングの如く、“何かをすることがそれ自体の動機になっていて、無限に循環する”状態。このときに感じる確固たる自己の自覚と、尽きせざるエネルギーと、真の自由がもたらす幸福こそ、私の原理であり、私はこういったものに情熱を向けているのです。
私は時に人から「汝、作曲なんぞをして、何を成し遂げようと言うのか!?」と聞かれることがありますが、そんな時は大変戸惑い、そして動揺します。
なぜなら「作曲するために作曲している」というこの状態を、誤解なしにどう完結に伝えれば良いか分からないからです。
物事を計る”ものさし”が情熱の矛先になる
長い時間をかけて辿りついたのは結局スタート地点でした。ただし、苦悩の上に得たこの答えは、決して安易な帰結ではありませんでした。
「手段が同時に目的となり、生きることと完全に一致したときこそが最高の状態である」
この20年間で得た教訓は今私の中心にあって、あらゆる物事を計る”ものさし”になっています。
貴下の従順なる下僕 松崎より
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