私の愛しいアップルパイへ
やはりブライアン・イーノがやってくれました。音楽とテクノロジーの融合を第一線で実験し続けてきた彼ですが、新譜「Reflection」ではこのやり方があったか!と驚嘆しました。
彼の一貫したコンセプトと斬新な取り組みには感動を覚えました。
ブライアン・イーノの新譜「Reflection」は、芸術とプログラムを融合した作品として、私がいままで聴いたことのあるその類の作品のなかでは間違いなく最も美しい作品でした。
アンビエント・ミュージックの開祖、ブライアン・イーノとは?
ブライアン・イーノといえば、アンビエント・ミュージック(≒環境音楽)の開祖として知られる音楽家です。
2016年に亡くなったDavid Bowieとは名作と名高いベルリン三部作を共作したことでも知られます。1977年-1979年にかけて制作されたこの三部作は本当に痛快な作品なので通して聴くのがオススメです。
ITに詳しいのであれば、Windows 95の起動音を作曲した人といえば馴染み深いかもしれません。
Windowsへの楽曲提供からもうかがい知れる通り、ブライアン・イーノは常に第一線で音楽とテクノロジーとの関係について模索してきた第一人者でした。そして音楽のアプリ化についてもやはり最初に模範を見せてくれたのは彼でした。
「聴く」音楽ではなく「在る」音楽の発明
本作を語る前にまずはアンビエント・ミュージックについて簡単に見ていきましょう。
アンビエント・ミュージックは環境音楽と呼ばれることもありますが、遡ればやはりエリック・サティが提唱した「家具の音楽」に行き当たります。ブライアン・イーノ自身もエリック・サティによる家具の音楽からの影響を認めています。
エリック・サティは「家具の音楽」のなかで、まるで家具のように日常に当たり前のようにあるものとしての音楽という表現を追求した音楽家でした。
テクノロジーが進歩した現代ではバック・グラウンド・ミュージック(BGM)というものが当たり前になっているのであまり斬新さを感じないかもしれませんが、最初に彼が「家具の音楽」を初演した際には、演奏家の前に聴衆が椅子を並べて音楽を”聴こう”としてしまったため失敗に終わったそうです。
家具の音楽はアンビエント・ミュージックやあらゆるBGMに先立って、世界で初めて「そこで聴く音楽」ではなく「そこに在る音楽」を創造したのです。
そしてブライアン・イーノのアンビエント・ミュージックはさらにその思想を拡張して、自然のようにそこに在る音楽を追求したものと言えます。徹頭徹尾「無限性」と「偶然性」を追求したその特徴を簡単にまとめるとこのようになるでしょう。
- 自然のように始まりも終わりもない無限性
- 常に一定しているようで、しかし常に変化し続けている
- 結果を予測できない偶然性を秘めている
- 人間にはコントロール不可能である
ちなみに、ジョン・ケージ作曲のあの無音の楽曲「4分33秒」は、楽器を演奏せずに今自然に流れている環境の音に耳を傾けようという曲ですから、あれがアンビエント・ミュージックという考え方の始まりと言えるかもしれません。
ただし、ジョン・ケージの冗談みたいな逆転の発想ではなく、発想はそのままに作品としてアンビエント・ミュージックを追求しているのがブライアン・イーノです。
AIやプログラミングは芸術との相性が最悪である
現代ではプログラミングやAIといった真新しい技術の発展が目覚ましい時期にあります。その流れは音楽にも例外なく訪れており、このような技術はどんどん音楽制作の場にも取り入れられています。
例えば、Youtube動画やゲーム、アプリや店内BGMなどではプログラムによって自動作曲された音楽を導入するのは珍しくなくなってきました。実際、音楽で使われる音の並びというのはプログラム的にはとても簡単にパターン化できるモデルなので、自動作曲のハードルは低いです。
楽曲のパーツに目を向ければ、自動的にプログラミングされたモチーフ(音楽を形作る一部のパーツ)を作品に用いるのは当たり前になってきています。おそらくいま作られているほぼ100%の作品がこのような自動作曲の恩恵を受けています。
ただし、コンピューターによる自動作曲というものは元来、芸術と大変相性が悪いという点についてはここで一度強調しておきたいところです。
以下でもお話しした通り「美しい」ということは「意義深い」ということです。もう少し噛み砕いていえば、芸術とは皆が日常の中で見落としている”ある意義深さ”を、製作者の視点を通して再発見させることが芸術の目的といえます。
そしてこれは自動作曲という概念と本質的に対立するものであることがわかります。音楽の表面的な音の並びをモデリングすることはできますが、意志や信念や情熱や葛藤を持たないコンピューターによる自動作曲は芸術的な価値を付与する余地がほとんどないからです。表面的には音楽に聴こえるぶん、たちが悪いです。
実際、自動作曲された作品というのは表面的に音の並びのロジックをコピーしただけの、あってもなくてもいいような、鼻で笑ってしまうようなバカバカしい似非音楽がほとんどです。
音楽とプログラムを本当に美しい形で融合させた新境地「Reflection」
これらの前提を踏まえてブライアン・イーノの新譜「Reflection」に目を向けてみましょう。
アンビエント・ミュージックが自然からインスピレーションを受けた「無限性」と「偶然性」を追求した音楽であることは先ほどお話しした通りです。ブライアン・イーノによれば今回の新譜「Reflection」はその中でも川を表現した作品であると語っています。
考えてみれば川はまさに「無限性」と「偶然性」の象徴でもあります。始まりもなく、終わりもなく、それは限りのないいつでもそこにある不変の存在のように見えます。
一方で、川を流れる水しぶきの1つ1つは決して同じものが流れることはありません。刻一刻と川は変化し続けています。
いつまでもそこにあるが、しかし同じ状態は二度と現れない「変化し続ける不変の存在」。この弁証法的矛盾を内包した神秘的な存在を再発見させてくれるのが「Reflection」です。始まりと終わりが明確で、いつまでも自分という存在に固執している私たち人間にとって、このようなありようは大変意義深いことです。
では「Reflection」は川をどのように表現しているのでしょうか。そこで鍵となるのがアプリの存在です。ブライアン・イーノは先の芸術とプログラムとの相性を素晴らしい形で昇華しました。
アプリはCDや演奏会とは違ってプログラムによる演算が可能です。ランダムな場所から再生することもできますし、音自体を変化させることもできます。
そのため、CDや演奏会では不可能な「始まりと終わりのない、無限の音楽」が作れるのです。さらに「Reflection」は季節や日にち、時間帯によって音がランダムに変化するように作られており、二度と同じ音が流れないように厳密に設計されているそうです。
このように、基盤となるとなる音楽はブライアン・イーノが作曲し、プログラムによってその作品に「無限性」と「偶然性」を吹き込んだのが「Reflection」なのです。
▼実際のアプリの画面がこちら。
アプリは大変シンプルな作りになっています。アプリを起動し、再生ボタンを押すだけです。すると川のように変化し続ける抽象画を画面に映しながら「Reflection」が再生されます。あとは何もすることはありません。私たちが実際に川を眺めているときのように、私たちにできることは何もありません。
最近、私は午前中ずっと「Reflection」を作業用BGMとして流しっぱなしにしています。「Reflection」を流していると、”変化し続ける不変の存在”という弁証法的矛盾によってその空間が満たされ、部屋の空気が一変します。いつも有限なものの中で必死に何かをコントロールしようとしている自分の徒労が”反射”されているようで、それを良い意味で諦めようと思えてくるのです。
ここまで話を聞いてくれたあなたなら分かると思いますが、「Reflection」はいま最も美しい作業用BGMといっても過言ではないでしょう。ぜひアプリを手にとってみてください(2017/01/12時点ではiPhone、iPadアプリのみのリリースです)。
ちなみに、CDや音源としても「Reflection」は買えるのですが、ここまでお話ししてきた通り、CDや音源ではその価値が大きく下がってしまうことは言うまでもありません。
アプリがCDの倍近くする価格設定を見てもアプリこそが真の「Reflection」であるというブライアン・イーノのメッセージが伝わります。
貴下の従順なる下僕 松崎より