私の愛しいアップルパイへ
先日こちらの記事でお話ししたことに到達してから、これからの我が音楽活動について考える日々です。
私は孤独感や虚無感に対して爬虫類みたいに単調に反発するのをやめて、純粋に自在に生きるというのならまずもって音楽の方向性について改めて考えざるをえませんでした。
熟考の末に私が発見したことをお話ししようと思います。ロックンロールの自殺者の独白を、きっとあなただったら興味深げに聞いてくれるでしょう。
すっかり形骸化して意義を失った哀れなロック
勘違いして欲しくないのは、私は20世紀を象徴する音楽ジャンルであるロックを愛していますし、尊敬もしているってことです。ここでいうロックにはそれから生まれた数多の派生ジャンル(オルタナティブ・ロックやグラム・ロック、ポスト・ロック、ラップ・ロック、プログレッシブ・ロック、ヘヴィ・メタルなどなど)も含みます。
当時の時代の流れのなかで切迫した問題に対する回答として必然的に生まれたロックというものに魅了され続けました。10代の頃、私もロックをやろうと考えるようになったのは自然なことでしょう。
しかし、実際のところ、米国でロックンロールが生まれ英国でロックが生まれてはや60年、「望めばなりたいものになれる」と声高に叫び続けたこの音楽はすっかり役割を終えて形骸化してしまったのが現代です。
やる方も聴く方もロックとポップの違いすら、工芸品と芸術品の違いすら分からなくなっているような末期症状が至るところに表れ、世界大戦直後に命がけで古い価値観へ真っ向勝負を挑んだ当時の革命的な様子は微塵もありません。
ロックの子羊たちは今や偉大なる国家と企業にすっかり飼い慣らされ、ロックの表面だけをなぞるだけで、転がる石のように八百長と馴れ合いが加速している様子です。黒い鳥がたどり着いた先でロックはとっくに終焉を迎えていたのです。早く息の根を止めてあげないと、ロックンロールの自殺者は増えるばかりです。
そうか俺は今ロックをやることにすっかりウンザリしてたんだった
先日リリースした1st Album「EatShit」をはじめとして、音楽を始めて以来、私はずっとあの愛すべきロックなるジャンルに取り付かれていました。原始的で、いびつで、我武者羅で、不器用で、異質で、ガサツで、荒々しいあのロックに。
特に、70年代後半と90年代後半に発展した商業的な世界への反発として生まれた(それは多分に商業化したロックに対する反発も含んだ)インダストリアルなるロックを土台としたいちジャンルに傾倒してきました。
しかし、15の頃に実家の二階で冷房をつけるのも忘れて汗だくになってレコーダーにロックまがいのソングを休みの間中吹き込んでいたときや、教師に隠れて教科書の後ろでYAMAHAのQY20を使って例えば5連部をつかった奇妙なロックまがいを打ち込んでいたときのような新鮮味はもはやありません。
思い返せば、私はずっと違和感を覚えていたのでした。いつからだったのか、私のデリケートな脳髄はその無意識下ですっかりウンザリしていたのです。いまロックをやろうとすることそれ自体がロックでないことを証明してしまう自己矛盾にです。まるで四角四面の型抜きに無理やり自分を押し込もうとしているような感覚がしていました。
なぜ私ほど神経質で繊細な夢想家が、このような単純明快なことに今まで気がつかなかったのか。私は疑問に思いました。それは恐らくただ格好つけたかったのでしょう。私は自分の答えにすっかり呆れ果ててしまいました。人間ってのは厄介な生き物です。
かくして私はついにロックの不自由から逃れることを志向するに至りました。これから人生を賭しての実験を始めるつもりです。ただ自由に、ただ自在な音楽を探して。
米国から飛び火した英国でビートルズとローリングストーンズがロックへと至る風穴を開けたように、フランスでギュスターヴ・クールベとエドゥアール・マネが印象派へと至る風穴を開けたように、そういったことを本気で目指してみるつもりです。
貴下の従順なる下僕 松崎より