好きなことを仕事にすべくフリーランスになったらうつ病になりかけた話

私の愛しいアップルパイへ

この半年間はまったく最悪の半年間でした。好きなことを仕事にすべくフリーランスになったら結果的にうつ病になりかけたのですから。少し回復もしてきたので、整理のために、忘れないように、文章化しておこうと思った次第です。

好きなことを仕事にすることの価値について、私は今でも否定するつもりは毛頭ありません。それどころか、賞賛に値するとすら考えています。

ただその道が決して楽で楽しい道ばかりではなく、ときには茨の道でもあるということの一例を示すことの価値もあろうと、ここに書き綴ろうと思います。

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無名の個人のドキュメンタリーが人を動かす快感

6年前、一人の無名の個人が夢へと向かうドキュメンタリーが人に影響を与えるほのパワーがあると気づいたのはこの愛すべきブログを始めてすぐのことでした。

半年でブログを軸に独立する決意を固め、1年後には会社を辞めていました。よく独立する決断ができた理由はなんですかと質問されることが多いのですが、私の場合は半年で”これでいく”という決意と覚悟が固まったから独立しました。

私自身が夢へと向かう模範になることで、かつての私のように安易に夢を放り投げて後悔している夢想家を刺激できればと考えました。「まだはやい」「もうおそい」と思っていることを「いまだから」に変える手助けができればと考えました。人が何かを本気を意志するということはもっとも尊いことであり、価値あるものだと信じているからです。

そして、このような考えに理解し、共感し、共鳴してくれる奴らを集めて手を組めば、想像もできないようなことが起こるんじゃないかってワクワクしていました。かつてのアメリカの伝説的なバンドであるグレイトフル・デッドがヒッピー達を率いたときのように。

どれも私の独りよがりのエゴであることは最初から気がついていましたが、それでも構いませんでした。ある一定のレベルまでは私の原動力として、希望としてうまく機能していたからです。

薄っぺらな人間関係にウンザリし始めた日々

駆け出しこそ大変だったものの、私の事業は順調に伸びていきました。仕事も複雑化して、関係者も増えていきました。この頃から無視できない存在になってきたのが、理解者ヅラしてニコニコしながら近寄ってくる数多の人々でした。それは事業の協力者の場合もあり、ブログや書籍の読者の場合もあり、ユーザーや顧客の場合もありました。

こんな仕事をしているからなのか、生まれつきの才能なのか、私は信念や覚悟や決意についてはよく鼻が効くんです。”見せかけ”にはすぐに気がつきます。

表向きは理解者風でありながら、自分の行動に責任も取らず目に見える利益だけ貪る者もいれば、明らかな詐欺行為を行うものもいれば、会うたびに価格交渉ばかりしてくる者もいました。人を人としてではなく、物か機械か機能として見る者。自分本位に解釈しては誤解を垂れ流す者や、決意もなく覚悟もなく惰性的に生きている者。ただ話し相手か友達が欲しいだけの者。ゴマをすってくる者。自分の要望や自分の権利だけを一方的に主張してくる者。

それでも私の信念として、個人の持つ無限の可能性を信じ、来るものは拒まずになるべく実のある関係を築こうと対話的なやりとりを続けました。希望を抱かせて最後には失望感だけ残していく。彼らは私にとってトロイの木馬のような存在でした。

いつしか、批判者のほうがまだマシだとすら思うようになりました。批判するなら私の方から立ち去ればいいのですから。理解者風の人々を拒むことはなかなかできません。私は身を削ってでも何か自分にできる方法がないか模索しました。結果、数え切れないほど多くの失望と向き合わなければなりませんでした

どうせひとり、どうせむなしい

独立するよりもずっと昔、10代の頃から私はある一つの妄想にとらわれていました。ブラックコーヒーに注いだ少量のミルクがコーヒー全体の色を変えてしまうように、その妄想は私の脳みそいっぱいに広がって滞留していました。

「どうせひとり、どうせむなしい」

人生とはどこまでも孤独であり、どこまでも虚無であるという確信にも似た妄想でした。生きるということがどこまでも孤独でどこまでも虚無であるなら、浅ましくも生にすがりついている理由はなんなのか?答えの出ない問いに頭を悩ませながらも、そのたびに顔の周りを飛ぶ蝿を手で払うように振り払っていました。これは私の持病の1つでもありました。

26歳の頃、独立するときに”これでいく”と決意したのは、生まれて初めて「どうせひとり、どうせむなしい」に対抗する現実的な手段がイメージできたからでした。行動と結果によって、生きることは孤独でも虚無でもないという実例を作りたかったのかもしれません。少なくとも、自らが偉大と認める目的のために自分自身を使っている間は、蝿も気になりませんでした。

うまくいってもなお絶望なら、すべてを終わりにしよう

強烈な退屈を感じ始めていました。のれんに腕押し、ぬかに釘、豆腐にかすがい。誰と何をやってもどこかで虚しさを感じるようになってきました。少しずつあの蝿が煩わしく感じるようになってきました。「どうせひとり、どうせむなしい」。シャラップ…

問題が表面化してきたのは半年ほど前からでした。それは新サービスが軌道に乗り、ブログ以外の軸となる事業も固まり、1st Albumをリリースし、初のワンマンライブを成功させ、ライブの収益は最高を記録し、収入はサラリーマン時代の2〜3倍になっていた頃でした。表向きにはすべてうまくいっているようでしたが、大きな壁にぶち当たったように感じていました。

焦るように事業の拡大を行いました。「こんなはずではない…」「なにか別のやり方があるはずだ…」「本当の理解者が、共鳴者がいるはずだ…」と。私は人件費を中心に支出を大きく増やしました。いくつも新しいやり方を試してみる必要がありました。

それでも大した手応えはありませんでした。なにか本当に人を突き動かすような、ビリビリと痺れるような化学反応が生まれるようなことはありませんでした。それどころか、事態は悪化したように思えました。しかし、無駄だと思えるようなことを1つ1つ積み重ねた先にこそ予想もしなかったような変化が待ち受けているのだと自分に言い聞かせながら這いずりました。

経費を増やしたものの思ったような収益は上がらず、事業の収益性が大きく下がった結果、この半年間におけるある月の私の月収は7万5千円にまで落ち込みました。その月のある日には、私の貯金額は2万円まで減りました。夜は眠れなくなり、食事は喉を通らなくなりました。

ある時などチーズケーキ1つで2日間凌いだくらいで、この時ばかりは90年代終わりに「音楽とは聴覚におけるチーズケーキである」などといって音楽を愚弄した心理学者スティーブン・ピンカーの呪いが我が身に降りかかったものかと疑いました。

忙しく、貧しい生活。そのうえ周りを見渡せば、人を物か機械として見るような、どこか表面的で利害関係に終始した決意も覚悟もない薄っぺらな人間関係。ウニやイクラのような中身の無いどろりとしたそれを見て、私はすっかり膿んでしまい、すべてに嫌気がさしてきました。まるで大量発生したイナゴに食い荒らされた田畑にでもなった気分でした。

私はやり場のない怒りを抱えながら鬱屈とした日々を過ごすようになりました。もともとエゴから始まったものだというのは分かっていましたから、ただ失望感だけが募りました。いつしか日常的に手で蝿を振り払っていなければならなくなっていました。

この6年間は私なりに最善の選択をして、予想以上にうまくいっていることばかりだったのです。このとき発見したのは、失敗して落ち込んでいるなら対処しようもあるが、成功して落ち込んでいる場合はタチが悪いということです。すべてがうまくいっているのに、それでもなお絶望しているというのなら簡単に対処のしようもありません。

この非情なる現実において、私の希望と戦略は惨敗だったのです。「すべてを終わりにしよう」と考えるようになったのは実に自然なことだったでしょう。

自殺願望との不器用な付き合い方

私の場合、「すべてを終わりにしよう」というのは当然事業のことだけに留まりませんでした。好きなことを、使命と思えることを仕事した私にとって、仕事とはほとんど生きることそのものでもあったからです。これは好きなことを仕事にする大きなリスクの1つかもしれません。

この一ヶ月間は自殺願望と戦わなければいけない日々が続きました。自殺願望が出てくるのはあまり良くない兆候であろうことは、私でも分かりました。考えすぎだとも思いましたが、まともな判断ができない状態にいることは分かっていましたから、最悪のケースも考慮して動かなければなりませんでした。

ある日、布団に横になって目を閉じると、死ぬその瞬間しかイメージできない日もありました。気がつけば誰にどんな遺書を残すかばかり考えている日もありました。そんな自分が悲しくて悲しくて、恋人が眠る横で腕を噛みながら声を押し殺して泣いたこともありました。

私がいま住んでいるマンションは5階にありますが、外出するときには特段気をつけなければなりませんでした。部屋からエレベーターまで30mの距離を歩く間に胸まである手すりの下を覗きこまように。もしそのときに「いまならいける」と思えてしまったなら、すべてが終わってしまうのですから。

このような日々においては、寝起きが大変な苦痛でした。精神的に酷い状態でも、眠気さえあれば睡眠に逃げることができます。憂鬱な日々の中で睡眠は緊急避難場所としても機能しました。寝て起きれば少しはマシな気分に変わっているかもしれませんから。

しかし寝起きだと睡眠に逃げることができませんから、退路の断たれた道を歩いているような緊迫した感覚がありました。

ある日、私は過去を振り返って(今を除いて)最も辛い時期だった日々の日記を読み返していました。私は布団の上に寝転がって、ただ過去の最悪な時期の日記を読み漁りました。当時はだいたい3ヶ月くらいで回復したようでした。これは良いアイデアでした。対処療法的だとしても「あと3ヶ月…あと3ヶ月…」と考えているうちは少し気が楽になったからです。

助けが必要でも助けを呼べない

誰かの助けが必要なのは明らかでした。しかし、かような状態になって数日が経っても、私はまだ誰にも相談ができませんでした。

第一に、生きることは孤独であり虚無であるという私の結論が正しいなら、果たして回復しようとする価値がこの生にはあるのかと思い悩んだからです。

第二に、私はせめて親しい人にこの気持ちを共有したいと考えていましたが、それは私にとって最も気乗りしない作業の1つでした。「どうせひとり。どうせむなしい。」と伝えることは、まるで「あなたと居ても孤独を感じるし、あなたと居ても虚しいだけなのだ」と突きつけることになるであろうからです。

私は私が大事にしている人にそのような孤独感と虚無感を突きつけて傷つけるような真似だけはしたくはありませんでした。そして明らかにこの信念こそが私の病状をここまで悪化させた主たる要因でもありました。

幸か不幸か、最終的に仕事に様々な支障が出始めて、のっぴきならない状態になってはじめて2人の友人に相談せざるを得ない時ができました。誰にぶつけることもできない失望感と、無視できない孤独感と虚無感について、何時間もかけて号泣しながら説明しました。辛く、苦しく、悔しい…2人の友人は真摯の私の話を聴いてくれました。

私の底知れない孤独感と虚無感について私以外に知ってくれている人ができた時、久しぶりに少しは救われた気がしたのを覚えています。

この世で最も醜いのは「解釈」である

さて、私のこの話を第三者的な視点で安易に結論づけるのはとても簡単なことです。

「疲れて正常な判断ができなくなったんだろう」「一人で抱え込みすぎたんだろう」「考えすぎだろう」「贅沢な悩みだ」「良い友達がいるじゃないか」「成長のためには欠かせないプロセスだ」「腹一杯食べてよく寝れば治るもんだ」「はやく病院にいけばよかったのに」「だから言ったろ。会社に居た方が何かと便利なんだ」「この程度で、なまっちろい奴だ。私の時代は…」

きっとあなたはそんなことはしないでしょうけど、「解釈」ほど醜いものはないと私は常々思っています。私は多くの失望に出会いましたが、「解釈」しようとする人間ほど私を大きく失望させる者は他にありませんでした。

私の音楽作品は常に論理を超える人間の無限の意志の偉大さに捧げてきました。「解釈」はその対極にあるもので、人間の意志の可能性をまったく無視し、歪な型にはめ、否定せんとする不感症の凡夫がやることではありませんか。

きっとあなたはそんなことはしないでしょうけど、一つ願いがあるとするなら、どうか「解釈」だけはして欲しくないものです。

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素晴らしき哉、人生?

(あなたがいま想像している通り)この物語が悲劇に向かっているのかは私にも分かりません。ただ、私はこの数週間ずっと私自身に問いかけてきました。「おお、か弱き子羊よ!汝、この後に及んでいったいなにを望むのか?」と。

少しずつ聴こえてきているのは、意外でもあり私らしい答えでもありました。

「このままじゃあ終われないだろ」

そういうわけでまた筆をとることにしました。

なんの因果か今日は8月1日です。実は、今日はこの愛すべきブログの誕生日でもあります。2011年8月1日、あの江東区にあるなんの変哲も無いワンルームのマンションで立ち上げたこの愛すべきブログは、今日で開設から6年が経ちました。

いまでも良く覚えていますが、この愛すべきブログを開設する前夜、私は「素晴らしき哉、人生!」という映画を観ていました。1946年のアメリカ映画で、監督はハートフルなコメディに定評のあるフランク・キャプラ、主演は「アメリカの良心」と呼ばれたジェームズ・ステュアート。

ジェームズ・ステュアート演じるジョージは人を助けることを生きがいとするまさに”良心”の権化のような人間です。しかし、不運から事業に大失敗してしまい、家族とも心が離れ、すべてに嫌気がさして「すべてを終わらせよう」とするんです。バーから出て衝動的に橋から投身自殺しようとしたところ、見習い天使のクレランスがやってきて一命を取り留めます。

ジョージはクレランスに「自分など生まれなければよかった」と気持ちを吐露すると、クレランスは望み通りにジョージが生まれなかった場合の町の様子をジョージに観せます。その様子は見るに耐えないもので、ジョージは「もう一度やり直したい」と決意を新たに町へと戻ります。町へ戻るとジョージを慕う数多くの友人から寄付金が集まっていて、事業は復活します。

私の物語が「素晴らしき哉、人生!」のようなハッピーエンドであればと思いますが、そんな見込みはいまのところありません。

ただ、どうせひとりだというなら、どうせむなしいというなら、焦る理由もありませんから、一歩一歩また少しずつ進んでいくつもりです。

貴下の従順なる下僕 松崎より

著者画像

システム系の専門学校を卒業後、システム屋として6年半の会社員生活を経て独立。ブログ「jMatsuzaki」を通して、小学生のころからの夢であった音楽家へ至るまでの全プロセスを公開することで、のっぴきならない現実を乗り越えて、諦めきれない夢に向かう生き方を伝えている。

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