システム屋から音楽家へ!私が音楽家の夢を追い続ける理由

backpacking-1167751_1920

私の愛しいアップルパイへ

最初に音楽家になりたいと思ったのが小学生のころ。その夢を安易に放り投げてシステム屋として就職したのは20歳のころでした。

大それた夢を馬鹿にされたり、非現実な夢を本気で目指して大失敗したり、自分の無能さを思い知らされることに恐怖して怖気づいていたのです。

いまから4年前、25歳になってようやく気づいたのは、夢を放り投げてまでやるべきことなど他になにもないということでした。

私がなぜそれほど音楽にこだわるのか、きちんとお話しておくべき時期でしょう。そのためには、私のこれまでの生き方についてお話する必要があります。

少々長くなりますので、上質なブラックコーヒーを準備してからお読みください。

大人しくしていることは家族に受け入れてもらう鍵だった

mother-1039765_1920

誰でも物心がついたころ、まずもって大切なことは家族に受け入れられることでしょう。家族に受け入れてもらえるのなら、なんだってしたはずです。私はどうだったかって?

私は姉と二人姉弟で、両親は二人とも警察官でした。両親の仕事は忙しく、日中はほとんど家にいませんでしたし、泊まりこみや休日出勤も日常茶飯事でした。

国のために犯罪に立ち向かう両親が多くの人から尊敬されていることは肌で感じていましたし、幼いながらもそれはそのまま私の誇りでもありました。職業柄、やっかいな問題や突発的なトラブルは耐えなかったのでしょう。誰からともなく、私は周囲からよくこう言われて育ちました。

「お父さんとお母さんが心配しないように、お父さんとお母さんが安心して仕事に行けるように、純ちゃんは大人しく、いい子でいるんだよ」って。

両親が仕事に行っている間は、祖母が私たちをかわいがってくれました。祖母は少々感情的なところもありましたが、いい子にしていれば顔じゅうの皺を集めたような優しい笑顔で褒めてくれました。飴玉をくれながら「純ちゃんはいい子だね」って。

小さいころからおばあちゃん似だと言われ、おばあちゃん子だった私はそれが嬉しくて、祖母が亡くなる小学生時代まで、学校が終わっても友達と遊ばず祖母の部屋で過ごしていたくらいです。

両親も祖母も、暗い部屋が怖くて一人で寝室に行けなかった私を寝室に連れて行ってくれて、毛布で包んで寝かしつけてくれたものです。これは幼い私にとって至福の一時でした。大人しく、いい子にしていた努力が報われたと感じられる瞬間でした。おそらく、生まれてはじめての成功体験だったのでしょう。

いつしか、賢い私はある法則に気づきました。「大人しくしていれば、喜んでもらえるのだ」「大人しくしていれば、褒めてもらえるのだ」「大人しくしていれば、すべてうまくいくのだ」と。

大人しく生きることで次第に臆病になっていった

sad-219722_1280

「大人しくしていれば、すべてうまくいくのだ」

この価値観は、幼少時は概ね狙い通り機能しましたが、成長とともに問題点もあらわになってきました。

それは新しい挑戦や実験に対してひどく臆病な人間になったことです。幼稚園への入園やお泊り会をはじめ、学校における様々な行事には常に消極的でした。両親にすすめられて、サッカーや習字や英会話といった習い事にいくつもチャレンジしましたが、ことごとくうまくいきませんでした。また、人と深い人間関係を築くことも苦手でした。

いま思えば理由は単純でした。私はいつも”大人しく”しようとしていたのですから。サッカーも習字も英会話も人間関係も、”大人しく”しているだけでは進展しようがないじゃありませんか。

家族に喜んでもらいたい一心ではじめた「大人しくしていれば、すべてうまくいくのだ」という生き方は、既に私の性格に深く根をおろしていました。ブラックコーヒーに注いだ少量のミルクがやがてコーヒー全体の色を変えてしまうように、”大人しくしていること”は私の一部になっていました。

私は、習い事でも学校の授業でも人間関係でも、様々なことが訳も分からないうちに失敗すると感じるようになり、それによっていっそう臆病になっていきました。自分の無能さに苦しみました。

大人しくしているときの安堵感を無意識のうちに追い求めるようになっていたのです。「我慢」。それが私の性格でした。

自分を偽っている罪悪感との葛藤

成長してからも、私の頭のなかにいる海兵隊の士官がいつもこう叫んでいました。「大人しくしていれば、すべてうまくいくのだ!」

この命令の一番の問題点は、先ほどお話したとおり臆病になることでした。加えて、歳とともにもう1つの問題も目立つようになってきました。

それは、自分を偽っていることに対する罪悪感です。

「いまは我慢しよう」「大人しくしよう」が性格になっていた私は、常に人の顔色を見ながら生きていました。幼いころはそれが喜びに直結していましたが、いつしか喜びは薄れ、まるで他人の人生を生きているような虚無感だけが残るようになっていました。

私はいつも偽りの仮面をつけて生きている気分でした。あるときは「子供」という仮面、あるときは「男の子」という仮面、あるときは「上級生」という仮面、あるときは「学生」という仮面。歳をとってもそのときどきに合った仮面が増えるだけで、根本的な変化はなにもありませんでした。「アルバイト」という仮面、「新卒」という仮面、「社員」という仮面。私はそれこそが知恵と責任のある生き方というものなのだと思い込みました。

だから、私は常にまだ人生は本番ではないのだと言い聞かせていました。自分はまだまだこんなもんじゃないはずだと言い聞かせていました。自らの意志を殺して大人しくしているためには、可能性のなかに逃げこみでもしなければ耐えられなかったのです。

大人しく生きるために偽りの仮面をつけることは、その下に隠れた燃えたぎるような生きる衝動を抑圧するようになったのです。

はじめて人生の自由を味わったとき

audience-868074_1920

唯一の救いは、小学生のころの音楽との出会いがこのような生き方に疑問を投げかけるスペースを作ってくれたことです。

偶然テレビかラジオで知ったハードロックやヘヴィメタルを聴いたとき、私はまず不思議に思いました。それは特異な音楽性によるものではなく、彼らの生き方に対する不思議さというか奇妙さでした。

感情的な叫び。耳をつんざく騒音。汗臭い動き方に騒ぎ立てる立ち振舞い。女の子みたいな長髪に、流行無視のファッション。配慮に欠ける大言と、鼻につく物言い。

1つ1つが他人を不快にさせるはずのものであり、先生に怒られるはずの行動であり、”大人しく”生きている私とはまったく別の生き方でした。私の考えでは、真っ先に世界から爪弾きにされるべき彼らが、それにも関わらず多くの人を熱狂させているのを見て不思議に思いました。しかもそれが仕事だなんて!

彼らが音楽をとおして行っていたのは、無我夢中で我武者羅に脇目もふらず恥ずかしげもなく、ただ自分を解放することでした。言葉で説明することのできない衝動や願望や信念や意志を体全体で表現することでした。

そこに私ははじめて人生の自由を見たのです。大人しく生きることを魂の第一配列としていたそれまでの私にとって、人生はひどく窮屈なはずのものでした。音楽は、それまでの私の人生には存在しなかった極上の自由の味を教えてくれたわけです。

抑圧するな!押し黙るな!妥協するな!自分殺しをするな!仮面をつけるな!

いつしか、私も彼らのようになりたいと考えるようになったのは、偶然じゃなく必然だったのだろうっていまは思います。

自分は犠牲者で敗者なのだと思うことにした

man-390340_1920

音楽家になる夢を持った私がどうなったか?この流れなら以降は右肩上がりで成功しそうなものですが、現実はそううまくはいきませんでした。音楽による自由の味を知ってもなお、「大人しくしていれば、すべてうまくいくのだ!」という虚妄に打ち勝てずにいました。

私は、誰も自分の本心など知りたがってはいない、私の夢は誰からも応援されていないという被害妄想にとらわれ、自分の夢を人に語るのを控えるようになりました。誰も関心がないなら、言うだけ無駄だと思うことにしたのです。

両親にギターが欲しいとも言い出せずこっそりギターを買いにいきました。友達に曲を作ったとも言い出せず授業中にこっそり作曲をしていました。音大に行きたいとも言い出せずシステム系の専門学校に進学しました。

案の定、細々とはじめた音楽活動もうまくはいかず、就職とともに活動量は少しずつ減っていき、ついにはバンドも解散しました。私は少しずつ少しずつ自分が小さくなっていくような気がしました。

ここまできてもなお、我が臓腑に深く刻みつけられた「大人しくしていれば、すべてうまくいくのだ」という固定観念を捨てるには至りませんでした。この観念は完全に私と同一化していたからです。

いつからでしょう。自分は社会の犠牲者であり、人生の惨めな敗者だと感じるようになったのは。社会を生き抜くには偽りの仮面をつけなければならないが、音楽をとおした自由の味も忘れられない。夢と現実の間で胸を引き裂かれました。

そして、私が自分を偽らなければならないのは、偽善に満ちた社会によってもたらされた悲劇だと結論づけることによって、自分の傷を舐めることにしました。

私は、自分を取り巻く社会というよくできたシステムに抗うことのできなかった敗者なのだから、夢を叶えることができないのは仕方ないというわけです。

18歳になったあたりから、私の頭のなかでは四六時中、犠牲者のマーチが流れるようになりました。お決まりの泣き言が無限ループで再生され続けるのです。

  • 私は望み通りの人生を歩めないのだ!
  • 私は夢を追う勇気のない弱虫だ!
  • 私は意志の弱い怠け者だ!
  • 私は好きなことで生活していけるほどの魅力がない人間だ!
  • 私は誰からも必要とされていない人間だ!
  • 私は才能の欠けた凡人だ!
  • 私は誰からも理解されていない!
  • 私はツいていない人間だ!
  • 私はここぞというときに必ず失敗する人間だ!

惨めな敗者じみた人生はもう終わりだ!

これがつい4年前、生まれてから25年間の私の人生というものです。

“大人しくしていろ”だなんて、まったく馬鹿げたことでしょう。言うまでもなく二度とはない人生において、一か八かの賭けにでるならまだしも、ただ大人しくしていることを努力するだなんて!ストア学派も驚く人生論じゃありませんか。

 

さて、勘違いしていただきたくないのは、今日はなにも懺悔をしにきたわけではないということです。もちろん、なにもチャールズ・フォスター・ケーンよろしく演説をぶってやろうってわけでもありません。

この惨めで敗者ぶった人生にケリをつけるべきときが来たということです。

方法はシンプルです。かつて、大人しくしている”ために挫折したバンド形態でのライブ活動に、無我夢中で我武者羅に脇目もふらず恥ずかしげもなく、もう一度本気で取り組もうってわけです。かつて、本当の自由を教えてくれた彼らと同じように!

だからなんだって?そう、だから、あなたにその軌跡を見て欲しいってことです。

▼ええ、そうです。私はもう踏み出したのです。

2 3_1200

貴下の従順なる下僕 松崎より

著者画像

システム系の専門学校を卒業後、システム屋として6年半の会社員生活を経て独立。ブログ「jMatsuzaki」を通して、小学生のころからの夢であった音楽家へ至るまでの全プロセスを公開することで、のっぴきならない現実を乗り越えて、諦めきれない夢に向かう生き方を伝えている。