SNSがもたらす不幸を生々しく突きつける映画「ザ・サークル」を観た感想と考えたこと

私の愛しいアップルパイへ

先日、試写会にお呼ばれしてあなたよりも一足はやく「ザ・サークル」を観てきました。私がいつも自宅のマンションの一室で脱皮できなかった蝉のように硬くなっていると思ったら大間違いです!

本作はエマ・ワトソンとトム・ハンクスという二代ビッグネームがぶつかり合いながら、SNSを中心にテクノロジーの過度な進化が人々にもたらすゾッとするような不幸を描いた一風変わったサスペンスです。

今日は「ザ・サークル」を観た感想と、映画を通して考えさせられたテクノロジーとの付き合い方についてお話しさせてください。

生々しい緊張感が迫ってくる「ザ・サークル」

映画「ザ・サークル」では、何処にでもいそうな田舎出身のピュアな若者としてのエマ・ワトソンと、時代の寵児となったスタートアップ企業の社長としてのトム・ハンクスを中心に、いつ訪れてもおかしくないリアルな近未来が描かれます。「ザ・サークル」とは作品中に登場する架空のSNSのことで、このサービスを通して我々の身の回りですでに始まっているテクノロジーの進化とソーシャルネットワークの浸透がもたらす影響の行く末をまざまざと暴きます。

スクリーンの上では、古き良きアメリカの片田舎にある主人公の故郷と、先進的なスタートアップらしい華々しい職場との対比がどこまでも物悲しく映ります。

私は最初こそ映画特有のワクワク感を楽しんでいたのですが、少しずつ生々しい緊張感に背筋が薄ら寒くなってきました

本作を観ている間、私は本作で描かれる近未来のテクノロジーにワクワクする一方で、ねっとりとした緊迫感のようなものをずっと感じていました。ゆっくりとゆっくりと真綿で首を絞められるような、「悪魔の言葉は甘いんだ」と耳元でそっと囁くような、そんな気味の悪さを感じていました(これはサスペンス映画に対する最高の褒め言葉の1つでしょう)。

映画の中で起こっている非現実的で大げさな出来事が、自分たちの身の回りで起こっていることと大差ないことに否応もなく気づかされるからです。この辺りの演出は皮肉の効いた風刺として非常に好感が持てました。そういう意味で本作品は多分にメッセージ性の強い映画なのでしょう。

ですから、この映画は観る者のセンスが少々問われる映画かもしれません。「あー怖かった」で終わってしまうのか、メッセージを受け取って自分の生活に当てはめて思考を深めるのか。反応のしかたも満足度も両極端になるでしょう。

テクノロジーの進化は人の幸福感に直結しない

本作を通して私が考えさせられたこともお伝えしておきましょう。まずもって本作のメッセージを一言にまとめるならば「テクノロジーの進化が人の幸福感に直結しないこと」ではないでしょうか。

映画が大味で、ステレオタイプのキャラクターと予定調和が鼻につくといった批判もありそうですが、個人的にはあえてデフォルメしてオーバーに描くことで人々に危機感を抱いてもらいたいといった意図を感じました。

18世紀におこった産業革命以来の激動の時代にある私たちは、テクノロジーの進化をまるでSF映画の世界が到来したかのように歓迎しています。華々しいテクノロジーは(表面的には)人々を魅了しています。しかし、一歩立ち止まってテクノロジーの進化が本当の意味で人を幸福にしているのかというと、実はそうではないことに私たちは薄々感づいています。

「予期せぬ炎上」「ポルノ動画の流出」「ギャングストーキング」「過酷な労働」「違法行為の助長」。いつ自分に起こってもおかしくないリアリティがあります。便利だと思って使っているツールが、実感できないレベルで確実に幸福感を低下させており、それがどんどん加速しているのだと現実感とともに切迫してくるのです。

ナルシシズムがもたらす死に至る病

本作を観て最初に思い出したのは、ジャン=ポール・サルトルの戯曲「出口なし」にある一節でした。

開けて、開けて、あたしの負けよ。何でも受け入れるわ。足責め、やっとこ、燃えたぎる鉛、ペンチ、ガロッタ、どんな風に焼かれても、八つ裂きにされてもいい。本当の苦痛が欲しいのよ

ポール・サルトル「出口なし」

サルトルにも影響を与えた実存主義の祖である19世紀の哲学者、セーレン・キルケゴールは「死に至る病は絶望である」と説き、その絶望の種類の1つとして「有限性の絶望」を挙げました。「有限性の絶望」とは、人間そして社会という有限な存在の中に身を投げて、みんなと同じになろうとすることで自己を放棄することから生まれる絶望のことです。サルトルのいう出口なしの世界と同じです。

サルトルやキルケゴールが本作を観たなら「有限性の絶望」もここまで進化したかと驚嘆することでしょう。

なぜこのようなことが起こってしまうのか?その答えをアドラー心理学に求めるなら「承認欲求の罠」として説明できるでしょう。私たちは時に他人から認められたい衝動で身を焦がします。

承認欲求は「人に褒めてもらい、報酬を貰うために良い行いをする」という考えに基づいています。これは視点を変えれば「褒めてくれる人が居なければ適切な行動をとらない」「罰する人が居なければ不適切な行動もとる」という歪な行動を促進します。

さらに、他人の承認は他人の課題です。しかし、他人の課題を自分がコントロールすることはできません。自分の行動より他人の承認を優先しようとすれば、いずれ二枚舌を使わざるを得なくなります。さもなくば、本来やりたいことを抑圧するに至り、不自由さに胸が張り裂けそうになるでしょう。

▼「承認欲求の罠」については以下の記事も参考にしてみてください。

承認欲求を満たそうとするのは何故いけないのか?~書評「嫌われる勇気」by岸見一郎、古賀史健~

さて、そもそもなぜテクノロジーの進化とソーシャルネットワークがこのような「承認欲求の罠」を加速して不幸を招いてしまうのでしょうか。それは「クラウド」を通して世界中の人々がつながったことで「劣等感」と「恥」の意識が異常に強まるからです。これが人間の承認欲求を肥大化させます。

テクノロジーが進化して世界中が繋がるようになれば、競争は激化します。それによって格差が広がります。格差は人々の絆を希薄化し、不安を煽っては人を劣等感と恥に対して敏感にさせます。

結果、学歴や所有物や暮らしぶりで人を格付けしようとする「ナルシシズム」にみんなが陥ることになるのです。自分の社会的地位を脅かさないようにするためにです。この現象はいまFacebookかTwitterを開いてフィードに表示された人のプロフィールを何人分か見るだけで嫌が応にも理解できます。

リンダ・グラットン氏が未来の働き方について書いた名著「ワーク・シフト」では、この傾向を見事に看破してこう説きました。

人々は、自分の社会的地位に不安を感じているので、謙譲の美徳を実践するより、自己アピールに余念がない。自分のことを昔からよく知ってくれている人たちに囲まれているわけではなく、しかも、あらゆる情報がたちまち世界中に知れ渡る時代に生きていると、あらゆる自己宣伝戦略を駆使して、自分がいかに素晴らしい人間かをアピールし続けなくてはならないのだ。

ワーク・シフト p.136

本作では、この延長線上にある”笑えないほどに馬鹿げた未来”を痛快に突きつけてくれます。

「人間らしさ」を取り戻そう

テクノロジーの進化とソーシャルネットワークの浸透には暗い未来しかないのでしょうか?本当に”出口なし”なのでしょうか?もちろんそんなことはありません。それらは道具に過ぎないのですから。

では、暗い未来を回避して明るい未来を引き寄せるにはどうすればいいのでしょうか?それは簡単に答えの出るものではないでしょう。ただし、1つ言えるのは「人間らしさ」を取り戻すことが重要な要素になるであろうってことです。

本作を観た当日、映画が終わってスタッフロールが流れるなか、私は何とも言えないバツの悪さを覚え、不快なほど手が汗ばんでいることに気がつきました。私がこの記事でお話ししたようなテクノロジーと幸福感との関係に思いを馳せている間、その隣では友人であるKeiKanriが一緒に本作を鑑賞していました。

スタッフロールが終わって会場が静かになると、彼が私の耳元でそっと囁きました。

「なんでこの会社偉いひと2人しか居ないの?」

私は呆れたように鼻で笑うと同時にふっと肩の力が抜けて、この馬鹿な男に感謝したのを覚えています。そこに「ザ・サークル」には無かった”人間らしさ”を垣間見たからです。

貴下の従順なる下僕 松崎より

著者画像

システム系の専門学校を卒業後、システム屋として6年半の会社員生活を経て独立。ブログ「jMatsuzaki」を通して、小学生のころからの夢であった音楽家へ至るまでの全プロセスを公開することで、のっぴきならない現実を乗り越えて、諦めきれない夢に向かう生き方を伝えている。