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私の愛しいアップルパイへ
我々のような夢見るリアリストにとって、論理と非論理の使い分けはとても大切なことです。左脳と右脳の使い分けといってもいいでしょう。
特に、成長とともにどうしても論理的な考え方にとらわれてしまい、論理的な考え方こそ正しいという虚妄に走ってしまいがちです。
一報で、非論理的な考え方に終始してしまっては、行動力が下がって理想を現実化することなどできなくなってしまうでしょう。
今日は私が論理と非論理をどう使い分けているかお話します。
論理と非論理の使い分け方
はじめに七面倒臭い説明を省いて端的に私の考え方を説明するとこうなります。
「情熱を燃やすには非論理、情熱を持続するには論理」
情熱を燃やすには非論理
我々が情熱を燃やす対象を見極めるときには非論理の力を活用すべきときでしょう。
「夢はなにか?」「好きなことはなにか?」「理想の世界はなにか?」こういったことを考えるときには我々の自由な意志の出番です。そして、自由であるということは、すなわち非論理的であるということなのです。自由には原因と結果がありませんから。どこまでいっても理外の理なのです。
たとえば、好きなことが論理的に導き出せるなんてことはまずないはずです。これは「鉄でできた木」というような矛盾を抱えています。
こういった場合に無理やり論理を使おうとすると「好きなこと」を否定して歪曲させる方向にしか働きません。論理には限界があることに注意しなければ、好きなことが分からないとか、夢が見つからないといった事態に陥ってしまうでしょう。
情熱を持続するには論理
では、論理など役に立たないかというと、もちろんそうではありません。
論理はひとたび情熱の対象が明確になってから活躍します。情熱を維持するために論理の力が必要になるのです。
非論理性によって燃えあがった情熱は、ただそれだけでは一瞬の煌めきで終わってしまうでしょう。やる気が続かないとか、三日坊主とか、そういったケースは非論理の力しか活用しない場合には必ず発生することです。
非論理な情熱が持続しないのは、我々の肉体を含めて、客観的な現象はつねに論理に基づいて働くからです。肉体が論理的な現象である以上、燃えあがった非論理性をそれだけで持続するのは難しいのです。そこで論理的なアプローチが重要になってくるわけです。
そして、これらを逆に使ってしまうと最悪の自体に陥ります。好きなことを論理的な分析で導き出して、実現はやる気に頼るようなやり方です。しかし不思議なことに、これはやりがちなミスなのです。
非論理の音楽と、論理の文章
私の場合、非論理は音楽、論理は文章と明確に使い分けています。
情熱や信念や意志を燃やそうとするとき、我が音楽はうまく機能するでしょう。
一報、それらを持続しようとしたときには、我が文章が役立つはずです。
貴下の従順なる下僕 松崎より