David Bowieに学ぶ、自在に変化して自由に生きる10のコツ

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私の愛しいアップルパイへ

私が「成長より進歩より変化」だと雄弁に演説をぶってやったのは以下の記事の通りです。

成長より進歩より変化する

先の記事でかの偉大なるアーティストDavid Bowieについて言及したのはあなたもご存知の通りです。彼こそファンを失う危険性を顧みずに変化し続けることで規格外の存在になったアーティストでした。

私は中学生時代に彼の作品に出会って以来、彼の生き様から多くのことを学び取ってきました。今日はDavid Bowieのキャリアを紐解きながら、私たちが彼のように自在に変化し続けて、自由を勝ち取るコツについて整理してみましょう。

David Bowieに学ぶ、自在に変化して自由に生きる10のコツ

1.高いレベルで一貫性を持つ

賢明なるあなたなら既にお気づきでしょうが、自在に変化するというのは予想以上に難しいものです。変化しようとしつつ、つい不本意ながら続ける選択に甘んじてしまうケースは後を絶ちません。

変化することが難しいのは、我々人類が元来より脅威から逃れるために現状維持をしたがる爬虫類脳の持ち主であることが1つ。

人類はあっという間に頂点に上り詰めたので、生態系は順応する暇がなかった。そのうえ、人類自身も順応しそこなった。

私たちはつい最近までサバンナの負け組の一員だったため、自分の位置についての恐れと不安でいっぱいで、そのためなおさら残忍で危険な存在となっている。

サピエンス全史(上) 第1章 唯一生き延びた人類種

そしてもう一つは、人は一貫性を持つことでアイデンティティーを維持したがるところにあるのでしょう。アイデンティティーを失うことは、社会的な存在である我々にとって大変恐ろしいことです。そして変化することは、しばしば一貫性を保とうとすることと矛盾します。

では、柔軟に変化するためには一貫性を捨てないといけないのでしょうか?「選択の科学」ではこのジレンマを解決する方法を明快に提示してくれます。

高みから俯瞰することで、内に抱える多くのものの折り合いをつけることができるのだ。ただし、自分の大まかな指針を世間にはっきり伝えるよう心がけなければいけない。(中略)

大切なのは、昔からずっと同じ自分でなくても、自分であることには変わりないという認識を持つことだ。

選択の科学  p.127

つまり、高次の抽象的なレベルで一貫性を保つことができれば具体的な行動レベルでは柔軟な選択が可能になるということです。むしろ、高いレベルで一貫性を持っているからこそ貪欲な変化が可能なのでしょう。

実際、David Bowieが優れていたのはこの点でした。彼はどの時代でも常に自らの純粋なインスピレーションに従う、奇妙なものに目を向ける、そして人は望めば何にでもなれるという信念など、抽象的なレベルで一貫性を保っていたために表現形式や音楽ジャンルを飛び越えて軽快に変化し続けられたのです。それはローリング・ストーンズもボブ・ディランもなし得なかった功績でした。

彼はレジェンドとしては珍しく目まぐるしく音楽性を変えるアーティストでしたが、全ての年代の作品を通してどこかDavid Bowieらしさが伺えるのは、David Bowieが柔軟な変化を包括する一貫した自己を確立していたからなのでしょう。

2.常識を疑う・常識に反発する

▼David Bowieの有名なインタビュー記事に以下のような内容があります。

彼の立ち居振る舞いは思わず笑みがこみ上げるほど一目瞭然にホモホモしい。「僕はゲイなんだ」と彼は言う。「ずっと昔からだよ。デヴィッド・ジョーンズを名乗ってた時からさ」。

デヴィッド・ボウイ インタヴーズ p.28

今でこそ性の解放が進んでホモセクシャリティに対する理解も進んでいるので驚くような内容ではないかもしれませんが、第二次世界大戦からまだ20数年間程度しか経っておらず、ベトナム戦争が泥沼化してベルリンの壁が設置された時期である当時は実にセンセーショナルな内容だったことは想像に難くありません。

ロックやビートニク、ヒッピー文化が生まれていたとはいえ、マッチョな男が国のために命を張るのがまだ美徳とされていた時代ですから、ホモセクシャリティはまだ十分に嫌悪感を抱かせるものでした。このようなゲイ擁護とバイセクシャルの公表は常識破りこの上ないことだったでしょう。

実際このインタビューは長年David Bowieを象徴する伝説のインタビューとして長らく語り継がれてきました。

それ以外の点においてもDavid Bowieは常にマイノリティーや奇妙なものに対する開かれた精神の持ち主でした、社会から強い批判を受けてでもそれに反発しようと力強い姿勢を見せるときもしばしばあったのです。

常に常識を疑い、常識に反発すること。これが彼のインスピレーションの源の1つであったことは疑いようがありません。

3.自分についてよく知る

David Bowieは少年時代より、部屋にこもって思索をめぐらしたり、詩や文学を嗜んだりするような内向的な性格であったと自ら語っています。特に少年時代というのは何かと外交的で社交的で活発であることが求められやすいものですが、彼はそのなかでも内向的な自分を貫いていたそうです。

このように一人になって自らの思索や思考、感情や感性に集中できるタイプは自在な変化を可能としやすいのです。

その理由は第一に、これは先の記事でも紹介したホーソン実験で明らかになったことの1つですが、注目や自覚された行動の質は上がりやすいからです。

それ以上に重要なのは第二の理由で、ライフ・シフトにある通り人が華麗に変身するためには「自分に対する知識」が欠かせないためです。

内省の重要性はきわめて大きい。自分と世界についての認識に新しい情報を加えるだけなら、誰でもできる。変身資産を積極的に築こうとする人がほかの人と違うのは、単に情報を加えるだけでなく、自己認識と世界の見方を変更することだ。その結果として、自分についての理解が広く深くなり、いくつもの要求と不確実性に対処する能力が高まる。

ライフ・シフト 第4章 見えない「資産」

内向的な性格、もしくは内向的でなくともそのような時間を意識的に取る習慣は自在な変化を可能とする重要な要素なのです。そしてそれは明らかにDavid Bowieの生まれながらの資質でした。

4.自分の才能を組み合わせる

David Bowieは自分がいま持っている手札を組み合わせて最高の結果をもたらしてきました。

1964年のデビューでうまくいなかったDavid Bowieは失意のうちに地元のロンドンへと戻り、意外なことにパントマイムと劇団での活動に没頭します。

その5年後、彼がもう一度ミュージックシーンに戻ってきたときにはまったく新しい戦略を携えていました。それは、劇団で培ったパフォーマンス、ファッション、ストーリーテリングの技術を音楽と結びつけて、総合的な1つのショーに昇華したのです。

彼はロックを拡張した「グラム・ロック」を創出し、火星から落ちてきた男「Ziggy Stardust」を演じ始めます。結果、その新しい音楽パフォーマンスのあり方は、宇宙計画へと興味が向いていた民衆の心をうまくとらえて、大ブレークすることになるのです。

彼は明らかに一方向的な優秀さでライバルと競うタイプのアーティストではありませんでした。それより、自らの持っている手札を柔軟に組み合わせて独自の道を切り拓くクリエイターだったのです。

▼インタビューにはこんなやりとりもあります。

(グレイトフル・デッドのジェリー・ガルシアについて聞かれて)

彼はミュージシャンで僕はミュージシャンじゃない。僕はあそこまで音楽にどっぷりじゃないよ、わかるだろ。僕は音楽を自分の最大の原動力とするなんて公言はしないし、僕にとっては音楽以外にも重要なことが沢山ある。例えば演劇やマイムだね。

(中略)

ミュージシャンってのはその楽器における名手のことだろ?それはどう考えても僕には当てはまらないからね。

デヴィッド・ボウイ インタヴーズ p.37

5.自分の使える手札を増やす

David Bowieのキャリアのユニークな点は年代ごとに様々なステージを行き来することで、線的なキャリアというよりはモザイク型のキャリアを築いたことです。

イギリスでのグラム・ロック自体、アメリカでのプラスティック・ソウル時代、ドイツでのベルリン三部作時代、そして世界的なポップス時代、50歳でのドラムンベースへの傾倒など、様々の国を渡り歩きながら、その時々で得た経験を作品に反映していきました。

それぞれの時代はだいたい数年をかけて行っており、ただ各地を転々と移動するというよりは、その地での経験をじっくり味わって自分の中で昇華していたことが分かります。

上述した通り、David Bowieは自分の手札の使い方も抜群にうまかったのですが、自分の手札を増やすことにも余念が無かったのです。これがDavid Bowieのキャリアに柔軟性を与えたのでしょう。

6.他人と積極的にコラボレーションする

David Bowieをよく知らないうちはDavid Bowieがソロで活動しているアーティストだと思うかもしれません。しかし、彼の本当の凄さというのはチーム・ビルディングの力にあります。

彼はその時々で有名無名に関わらず自分のインスピレーションを拡張してくれるチームを組んで最大の結果を生み出していたのです。ですから、ソロ活動というよりは常にその時々の最適なグループで活動していたと言った方が近いでしょう。

ダイ・ハードはファンたちはDavid Bowieが数々のアーティストとコラボレーションしながらDavid Bowie自身のインスピレーションを高めていく様子をDavid Bowie作品の重要な要素として楽しんでいます。

例えばグラム・ロック時代はミック・ロンソンやイギー・ポップ、ルー・リードなどと行動を共にしていたことで知られ、ひどく調子の悪かったモット・ザ・フープルに曲を提供して解散寸前だったバンドを持ち直す助力さえしました。

アメリカ時代はジョン・レノンとFameを共作し、ベルリン三部作はアンビエント・ミュージックの創始者として知られるブライアン・イーノとコンビで製作しました。突然ミック・ジャガーやフレディ・マーキュリーと組んでファンを驚かせてみたり、晩年には親子ほど歳の離れたトレント・レズナーとも共作しています。

このような世界的に知られるミュージシャンだけでなく、当時そこまで有名でなかったミュージシャンを発掘して、積極的なコラボレーションをしていたことでも知られています。

グラム・ロック時代の中心メンバーの1人であるピアニスト、マイク・ガースンをはじめ、レッツ・ダンス以降のポップス時代には未だ無名だったスティーヴィー・レイ・ヴォーンをギタリストとしての抜擢し、彼のキャリアを後押ししました。

David Bowieは決してソロで活動していたわけでなく、コラボレーションの天才だったのでメンバーを固定する必要性がなかっただけだったのです。

7.遊び感覚でいろいろやって、成り行きを見守る

David Bowieはその感性の鋭さとインスピレーションの幅広さが大きな魅力の1つでしたが、彼を他のアーティストと一線を画す存在にしたのは、ずば抜けたインスピレーションを形にする実現力でしょう。

だからこそ28枚ものスタジオアルバムをリリースし、年がら年中ライブをやって、絵画を描き、詩を創作し、俳優として活動し、ミュージカルの制作までできたのです。

彼は新しいインスピレーションに従うことを恐れず、遊び感覚で色々やってみる天才だったのです。これは素晴らしい成功法則の1つでもあります。

目標など持たずにあっちに行ったりこっちに行ったり飛び回ってみることこそが、一番の成功法則だと説いた「仕事は楽しいかね?」にはこんな一節があります。

発明家や革新者に話を聞くと必ず、<異なった>という言葉と一緒に、自慢げに人に見せるという考えが出てくる。成功する人たちはね、自分がどこへ向かっているかということはわかってない−ただ、遊び感覚でいろいろやって、成り行きを見守ろうと思っている。

仕事は楽しいかね? 第5章

遊び感覚でいろいろやって、成り行きを見守るというのは、まさにDavid Bowieのキャリアを象徴する言葉といえるでしょう。

8.失敗したらすぐ辞める

David Bowieがやるだけやって様子をみてみる才能の持ち主だったことはお話しした通りですが、それと同時にうまくいかなかったらすぐ辞める天才でもありました。彼は引き際も良くわきまえていたのです。

例えば「Ziggy Stardust」を葬り去ってグラム・ロックを決別することを宣言した1973年の伝説のイギリス公演をはじめとして、彼は様々なプロジェクトを宙ぶらりんのまま撤退しました。

例えば、1989年に結成したティン・マシーンはスタジオ・アルバムを2枚リリースした後、その反応が芳しくないことを理解してすぐに活動休止となりました。

「1.OUTSIDE」は連作にするためにアルバムタイトルに”1”が含まれていますが、”2”が制作されることはついぞありませんでした。また、以前より自らの自伝的映画を撮影することを何度もほのめかしていましたが、それが実現される兆しはありません。そして2003年のRealityリリース以降の10年間もの空白もその最たる例でしょう。

それ以外にもDavid Bowieは数々のインタビューで”作りかけの”プロジェクトについて言及しています。彼は「途中で辞める」という選択肢を取るのがうまかったのです。何かをやりきるという事にこだわっておらず、それこそが自在な変化を可能にしていたのでしょう。

9.肩書きにこだわらない・作らない

David Bowieは自分をミュージシャンなどとは名乗りませんでした。これについては先ほど紹介したインタビューの通りです。

彼はサックス・プレイヤーからキャリアをスタートさせ、ギタリスト、シンガー、詩人、パフォーマー、俳優、画家と様々な表現活動に手を広げました。

評論家などからは、時にそれが音楽家として中途半端であると批判を受けることもありましたが、それを気に止めるようなことはありませんでした。

彼は自分の手札を自由に増やし、自分の手札を自由に使い、肩書きというカテゴライズを嫌い、唯一無二の存在として輝き続けたのです。ちなみに彼はイギリス政府からの大英帝国勲章コマンダーと大英帝国騎士号のオファーを両方辞退しています。

現代ではアーティストですら特定の肩書きや役職、職業に就くために躍起になることは珍しくありませんが、David Bowieはそんなこと気にも止めず、ただ自分だけのキャリアを築くことに没頭したのです。彼は「ロックのカリスマ」などと名乗ることも、「音楽セールス・コンサルタント」などと名乗ることも、「代表取締役」などと名乗ることもありませんでした。

10.やりたいことをやりながら、それをビジネスにする

David Bowieはいつでも自分のアーティスト活動に専念するために、アーティスト活動そのものをビジネスにすることに労力を惜しみませんでした。「金儲けが全てではない」と、ビジネスを嫌悪する人も多いものですが、David Bowieは自分のやりたいことをやりながら、それをビジネスにすることが自らの活動を良い形で持続可能にしてくれるとよく心得ていたのです。

例えば、自分を一気にスターダムへと押し上げてくれたグラム・ロックからプラスティック・ソウルに転向して「ヤング・アメリカンズ」をリリースしたとき、多くのファンは混乱しました。しかし、蓋を開けて見たらそのアルバムはそれまでで最も良いセールスを記録したのです。音楽の革新性はもとより、ジョン・レノンとコラボレーションというビッグ・ニュースを携えていたからです。

彼はメディア・コントロールがずば抜けてうまく、大きな転換期には必ず注目に値するビッグ・ニュースを携えて我々の前に姿を現しました

レッツ・ダンスのドイツ公演では、ベルリンの壁の目の前でコンサートを開きました。西ベルリンから大きなスピーカーを東ベルリンに向け、壁の向こうにも音を届けたのです。「壁の傍らに立って、頭上を銃声がかすめる中、僕らは何事もなかったかのようにキスを交わした」と歌った彼のコンサートは、ベルリンで大きな社会問題となりました。

空白の10年を経て突然リリースされた「ザ・ネクスト・デイ」は極めて厳重に収録が行われ、関係者には全て秘密保持契約を結ばせたと言われています。そして、一切の宣伝なしに突然iTunesにリリースされた「ザ・ネクスト・デイ」は瞬く間にiTunes Storeで1位となりました

また、今でこそVALUをはじめ個人のブランドに対する株式を発行する仕組みが日本でも少しずつ注目され始めていますが、その先駆けとしてDavid Bowieは20年以上も前にDavid Bowie自身を対象とした株式を発行しています。これはいわゆる「ボウイ債」と言われるもので、その斬新さからボウイ債だけのWikipediaがあるくらいです。

ボウイ債 – Wikipedia

変化だ!奇妙なものに目を向けろ!

今日はDavid Bowieの生き様を中心に、変化し続けることで自己超克する生き方について解説しました。彼は音楽作品だけでなく、人格および生き様すべてを含めて優れた芸術家だったとしみじみ思います。

悲しいことにロック史の中でも特に勘違いされやすいアーティストですから、この記事が彼のことをよく理解する第一歩になったなら幸いです。

最後にDavid Bowieの初期の傑作、Changesを引用して終わりとしましょう。

Changes
Turn and face the strange

Changes
Don’t want to be a richer man

Changes
Turn and face the strange

Changes
Just gonna have to be a different man

変化だ。奇妙なものに目を向けろ
変化だ。金持の男になりたがるな
変化だ。奇妙なものに目を向けろ
変化だ。彼は別の男になるべきだ

「Changes」 by David Bowie

貴下の従順なる下僕 松崎より

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