私の愛しいアップルパイへ
先日、アドラー心理学をまとめた名著に「嫌われる勇気」とその続編「幸せになる勇気」を読み解きながら、普通であることの勇気について語ったのはあなたもご存知のとおりです。
普通であることの勇気は相手を尊敬し、協力原理を培ううえで基礎となるものですが、ここで話した普通であることの勇気を身につける前段として問題になるのが「褒める」という行為です。
アドラー心理学のユニークな考え方の1つは、叱ることだけでなく褒めることも否定していることです。
アドラー心理学のいうとおり、自信を失くしたのは褒められ続けてきたからだと思うわ
個人的な話をすれば、私は昔から褒めるのも褒められるのも苦手でした。先ほど紹介した2冊の本を読んで、これは単に私が偏屈な人間だからってわけではなかったらしいことに気がつきました。
ご存知のとおり、私は5年前まで自分の夢を安易に放り投げて、サラリーマンとして鬱屈とした生活を営んでいました。まるで牢屋に入れられたように不自由で、私はいつもこう考えていました。「時間よ、はやく過ぎ去ってくれ!」
これも元をたどれば、昔から褒められ続けてきたよるものだと確信しました。なぜなら、褒めるという行為は裏を返せば普段は無能であるという烙印を押すことに他ならないのですから。
人は、ほめられることによって「自分には能力がない」という信念を形成していくからです。
嫌われる勇気 第四夜 世界の中心はどこにあるか
過去を振り返ってみると、私は特定の行動を褒められるたびになにか窮屈さのような、危機感のような、焦りのようなものを感じていました。なんてったって、褒められるたびに普段のお前は無能でうんざりしているんだといわれている気がしたからです。そのたびに気が引き締まる思いでした。
それはそうです。アドラー心理学にあるとおり、褒める行為は能力のある人が、能力のない人に下す評価でしかあり得ないのですから。そして、褒める行為はどこまでいっても条件付きの信用にしかならないのです。無条件の信頼や愛とは無縁の行為です。
私は小さいころから大人たちに褒められ続け、ついにはなにかをしていなければ不安でソワソワするようになっていました。特定の行動をしているときにしか私の価値は認められないのだと思い込むようになったからです。
私が夢を安易に放り投げてシステムエンジニアとして就職したのは「褒められること」を追求して不自由になった結果だったのでしょう。
いまでも気を抜くと唐突に「もっとなにかしないと」とか「このままじゃいけない」といった妄想にとりつかれることがあります。これもほとんどの場合は、褒められ続けてきたことで形成された無能の烙印によるものなのです。
褒賞が競争をうみ、不自由につながる
褒賞は承認欲求を刺激し、そこから競争が生まれます。褒めることは相手を操作しようとすることで、褒められるための行動は競争につながります。それは普通であることの勇気の発揮を一層難しいものとし、間違いなく不自由へと続く道なのです。
がむしゃらに突っ走って、ふと足を止めたときにはこう叫ぶことになるでしょう。「こんなはずじゃなかった!」って。
▼これは以下でお話したこととつながります。
褒められたとき、そして褒めようとしたときには大理石像のごとく冷徹にならなければなりません。自分や相手に無能の烙印を押そうとしてはいないか、と。
貴下の従順なる下僕 松崎より