意識や思考を変えても意味がない理由

カテゴリ: 人生を変える

thinking-272677_1920

私の愛しいアップルパイへ

「意識や思考を変えても無意味だ」と馬にまたがったまま命乞いに応じようとしない無骨な騎士のごとく冷淡に言い放たれたことが1回はあるでしょう。

よく目にするのは、本を読んで意識を変えたところで行動に移さないと意味がないって話です。

この話にはいつも悶々とするというか説明不足なところが気になっていたので、思考や意識を変えることに本当に意味はないのか整理してみようと思います。

意識や思考を変えることには間違いなく意味がある

まず、思考や意識が変われば自然に行動が変わるはずです。カラーバス効果のように、ちょっとした意識の変化がものの見方を変えてしまうのはよくあることです。

ものの見方が変われば当然行動も変わりますから、やはり意識や思考を変えただけでは無意味ってことはないでしょう。ちょっとした意識の変化が目から鱗のアイデアに変わるときだってあります。

社会学者のR.K.マートン氏が提唱した自己充足的予言のように、誤った判断や思い込みが行動を引き起こし、当初の誤った判断や思い込みが現実化してしまうこともよく言われることです。これは意識や思考の変化がいかに人の人生に大きな影響を与えているか示しているでしょう。

人は高度な訓練を詰めばどんな分野でもエキスパートになれることを説いた、心理学者であるアンダース・エリクソン教授の著書「PEAK」(邦題:超一流になるのは才能か努力か?)にも意識や思考が現実を変えてしまうパワーについてこう書かれています。

どうしても気分がのらないときでも練習するには、自分は上達できると信じること、(特にエキスパートを目指す人は)その分野でトップクラスになれると信じることが必要だ。この信じる気持ちはとても強力で、ときには現実さえ変えてしまう。

PEAK」 第六章 苦しい練習を続けるテクニック

こんな考え方もできます。宗教も芸術も法律も企業も飛行機も、我々の生活を支えているあらゆる偉大なる創造物は、例外なく意識や思考の変化からはじまる想像力の結晶であるという点です。

あらゆる偉大な仕事が、私たちの夢や希望や願望といった意識と思考を出発点としていることは無視できません。「7つの習慣」にもあるとおり、あらゆる創造が第一に頭のなかで作られ、第二に物質的に作られるのです。とても意識や思考を変えることが無意味だとは思えません。それどころか、素晴らしく大きなパワーを持っているではありませんか。

意識や思考を変えることがなぜ無意味なのか?

意識や思考が現実を変える強力なパワーを備えていると多方面で語られる一方、極論だとしても意識や思考を変えることが無駄だという主張がなぜこんなにもすんなり入ってくるのでしょうか?その発言者が意識や思考の織りなす偉大な仕事について無知な馬鹿野郎だからでしょうか?そうでないならば、その裏にはどんな意図が隠されているのでしょうか?

ここで思い出すのが物理学者であるフェルデンクライス氏のメソッドです。彼は体の動かし方を変えることで身体的にだけでなく精神的にも人間を活性化させると説いた学者でした。

目の覚めた状態は、感覚、感情、思考、運動という四つの要素から成り立っている。これらの要素のどれひとつをとっても、人間変革のあらゆる方法の基礎として使うことができる。

(中略)

からだの調整機構は、他の要素よりもはっきりと確実にとらえることができる。怒りや愛や憎しみ、あるいは思考よりも、運動についてはるかに多くをわれわれは知っている。運動の質のほうが、その他の要素よりも比較的らくに認識することができるのである。

フェルデンクライス身体訓練法 第一部 理論編

本書の主張を簡単にまとめると、何かを変えようと思ったら感覚、感情、思考、運動のどれを変えても意味はあるが、実際に意図的に変化をコントロールするのなら運動(行動)が圧倒的に容易であるということです。これはとても納得のいく主張です。

考えてみれば意識や思考は変化をコントロールするどころか、実際に自分がいまどんな意識や思考をしているか認識することすら困難です。確固たる決意がすぐに挫けてしまったとか、意識を確実に変えたはずなのにすぐに以前のレベルに戻ってしまったとか、今日死んでもいいと思っていたのにいざとなったら命乞いするとかいった反応はとても人間的です。「明日こそ必ず!」と固く決意したはずなのに、いざ当日になってみたら「今日はいっか」になってしまうのは誰にとっても日常茶飯事なはずです。

フェルデンクライス・メソッドによれば、感覚と感情と思考と運動の四つの要素はそれぞれが密接に結びついており、どれか1つが変われば他の3つも連動して変化せざるを得なくなります。そのため、主体的なコントロールが比較的容易である行動面の変化に着目することで、意図的な変化の難しい意識や思考の変化にアクセスできるのです。

行動の変化によって意識や思考が意図したとおりに変化できるかどうかは分かりませんが、なんらかの変化が起こるのは確実です。その結果をもとに修正を重ねていけば、徐々に意識や思考を意図した方向に変化していけるかもしれません。

つまり、「意識や思考を変えても無意味だ」というのは厳密には「意識や思考を直接変えようとするのは難しく、その試みはほとんど無意味だ」ということです。それよりも行動を変えるほうが「意識を変えるぞ!」と意気込むよりはずっと現実的で実践的です。

意識や思考を変えるより、行動を変えるほうがずっと効率的である

つまり、「意識や思考を変えても無意味だ」という言葉の裏に隠された意図はこのようなことでしょう。

  • 確かに意識や思考を変えることには意味があるどころか、素晴らしく大きなパワーを備えていることは疑いようがない
  • しかし、意識や思考の変化を直接かつ主体的にコントロールすることはとても困難である。そもそも意識や思考の実態をつかみとることですら難しい
  • それよりも運動や行動を変えるほうがずっと実態をつかみやすく、コントロールもしやすい
  • そして、運動や行動は意識や思考と密接に結びついているので、結果的に意識や思考を変えるうえで最も確実かつ効率的な方法となる
  • これらを一言でまとめると「意識や思考を変えても無意味」となる

これなら「意識や思考を変えても無意味」だという主張も納得できます。

貴下の従順なる下僕 松崎より

カテゴリ: 人生を変える
モバイルバージョンを終了