私の愛しいアップルパイへ
いったいいつからそんなふうに思うようになったのか?
正直に告白しなければならないことがあります。それは、私がシステム屋から偉大なる音楽家へ至るプロセスを通して、諦めきれない夢に向かう現実的な生き方をあなたに伝えることを、心のどこかでは実現不可能なのではないかと思っていたってことです。
人間ってのは誠に不思議な生き物です。その思いは私自身でも信じ難い、信じたくないものでした。
順を追って説明しましょう。
きっかけは今年初めに届いたニュースからだった
今年、2016年は頭のてっぺんにアイスピックをずぶりと突き刺されたかのような、衝撃的なニュースとともに幕を開けました。
2016年1月10日、かの偉大なるアーティスト「David Bowie」が69歳で亡くなったのです。
私はこのニュースにひどく動揺しました。David Bowieは私の青春であり、私の師であり、私の憧れでした。このグルメで偏執狂的な私にとって、David Bowieはかけがえのない、誰も代わることのできない、貴重な存在でした。
彼は素晴らしいアーティストでした。音楽家になるという私の夢も、彼に大きく影響されたものでした。「彼に人生の本当に大切なものを教えてもらったのだ」と言えばあなたはその陳腐な表現に苦笑するかもしれませんが、それは紛れもない事実なのです。
彼はとびきり変化の激しいアーティストとして有名でした。一方で、彼の表現は誰よりも一貫していました。彼は目まぐるしく変わる自らの表現活動を通して「人は望めば何にでもなれる」ことを表現したアーティストでした。
そこから私は(それまで他の誰も教えてくれなかった)自由の意味を学びました。人の顔色を伺いながら偽りの仮面をつけてビクつきながら生きることに、そしてそのような文化が浴槽のカビのように蔓延っていることにウンザリしていた私にとって、彼の表現は素晴らしい人生の希望でした。
私が彼のような偉大なアーティストになるのだと考えるようになったのは、偶然ではなく必然だったのだと今ならわかります。
私があなたに狼のようなギラついた目つきで「私は音楽家になるのだ!」と叫ぶとき、それは半分以上はDavid Bowieのような偉大なアーティストになるということを意味していました。
ついにこの日が来てしまったかと落胆した
David Bowieが死んだというニュースを聞いて、私はひどく悲しみました。
おそらく多くのファンがそうしたように、死ぬ数日前に発表されたアルバムを中心に過去すべての作品を聴き返しながら、偉大なるアーティストを偲びました。
ある日など、私は泣きながら一日中David Bowieの作品を聴いていたくらいです。
彼も69歳でしたから、以前から体調の悪化が頻繁に報じられており、先はそんなに長くないだろうことも分かっていました。
私はついにこの日が来てしまったかと落胆しました。
小さな違和感から聴こえてきた本心
この一連の流れの中で、私は小さな違和感を覚えていました。それは当初、実態のわからない実に小さな違和感でした。
私はこの違和感を手に取ることもなく日常を過ごしていました。しかし、違和感はいつしか無視できないほど大きくなり、私のデリケートな頭を占有するようになりました。
違和感は私にこう語りかけました。「ちょっと待てよ」と。
日の経過とともに、この違和感の声がはっきりと聴き取れるようになりました。それは約10ヶ月ほどかかりました。違和感が語るには、こういうことでした。
「おいjMatsuzaki。聴こえてるか?俺にゃあまったく不思議だね。なにがって、お前の態度さ。
はたから見てたんだけどよ、お前は自分が目指す憧れのアーティストが死んだからって悲しむばかりで、メソメソ聴きなれた作品と戯れることくれぇしかやりゃしねぇ。俺にゃあまったく不思議だね。
人間の本心とか信念とかってのはな、そいつの無意識の反応に出るもんだ。憧れの人物がおっ死んで素直に受け入れて、メソメソ悲しむって自然な反応はよぉ、お前が奴さんとは住む世界の違う遠い世界の住人だって信じてたってことだ。
言ってる意味分かるか?目標とする人物ってことはだ、自分の作品を聴いてもらうとか、同じステージに立つとか、一緒に共作するとか、少なからずそんな目標も持ってたはずだぜ。お前はその目標を達成する機会を永久に失ったんだ。
悲しむだけじゃなくて、なぜ悔しがらない?それは、お前が行動しようとしてなかったからだぜ。お前はずっと本心では奴さんのようにはなれないって信念を作ってた証拠だ。
奴さんが死んじまったとき、お前は心のどこかで『やっぱりな』って思ったんだ。やっぱり同じステージに立つ前に死んじまったかって。おっと、こりゃあ技能の問題でも環境の問題でもねぇぜ。覚悟の問題だ。
俺に言わせりゃ、お前はまだまだ甘ちゃんだったんだよ。重要な機会を逃して10ヶ月以上が経って初めて気がつくオッペケペーだ。」
この違和感の声は私を大いに揺さぶりました。以下の連載も元はといえばこの違和感に触発されたからでした。
いったいいつから自分は憧れの人物のようにはなれないなどということを信じるようになったのか?
この流れの中で私は自分自身に憤慨しました。そして心底反省しました。
私はいったいいつから自分はあの憧れの人物のような超一流の偉大なるアーティストにはなれないなどと思い込んでいたのでしょうか?
他の誰かが実現できたってことは、自分にもできるってことの証明以外のなにものでもないじゃありませんか。自分はあんな風にはなれないなんて、まったく根拠のない馬鹿げた妄想です。
自分が気づきもしないうちに、自分の理想とはかけ離れた信念が築かれているのは大変恐ろしいことです。なぜなら、人は自分が願うことを、信じることを、想像することを、意志することを実現してしまうものだからです。
あらゆる宗教も、国家も、会社も、芸術も、例外なくそれらすべては個人の意志から生まれたものです。まず思いがあって、それが実現されます。「実現できない」という信念があれば、それが実現されることになります。
だからこそ、自分が何を信じているかについてはとびきり気を使っているつもりでした。しかし、いまだに根本的なところで異様な信念が形成されていたことに驚きました。
この一連の出来事は、David Bowieをはじめとした私が真に偉大と認めるアーティストに自分自身が本当になるのだという覚悟を固め、信念を築くためのきっかけを作る大事件となりました。
貴下の従順なる下僕 松崎より