夢を「死ぬまでにやりたいこと」だと定義する勘違い

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私の愛しいアップルパイへ

夢!なんと、素晴らしい言葉でしょうか。夢!まるで甘美に響く竪琴のようです。

しかし、この甘美に響く竪琴のうっとりするような和音を破壊する勘違いがのさばっているのも事実です。まさに私はかような勘違いによって胸が張り裂ける思いで生きてきました。

夢を「死ぬまでにやりたいこと」だと定義する罠

昔から夢といえば、死ぬまでにやりたいこととか、死ぬまでになりたい職業とか、そんな風に教えられてきました。

ですから卒業文集なんかには、将来はプロ野球選手になりたいですとか、アメリカ大統領になりたいですか、社長になりたいですとか、世界一周したいですとか、宇宙旅行したいなんて夢が並んでいたものです。しかし、夢を「死ぬまでにやりたいこと」だとすることには致命的な欠陥が潜んでいます。

それは、死ぬまでにやりたいことを実現するために、いまは我慢しておこうとか、嫌なことも甘んじて受け入れようなどと考えだすことです。

将来社長になるために、いまつまらない授業を我慢して受けよう。通知票を良くするために、あまり興味のない運動部に入ろう。将来の受験のために、嫌々でも土日に習い事に行こう。将来良い家庭を築くために、いまは嫌な仕事を我慢して続けよう。てな具合です。

私は生まれつきの夢想家でしたから、このような考えを本気で信仰していました。夢という「死ぬまでにやりたいこと」のためになら、嫌なことでもなんだって我慢してやろうって態度でいたのです。これこそが人生戦略でした。まるで我慢くらべ。

そのうちこの戦略は性格となり、我慢して嫌なことをやっていないとソワソワするようになりました。いま我慢していなければ、あとで報われない気がして怖かったのです。しかし、いつもどこかに違和感がありました。夢という至福のために生きているはずなのに、私はいつも死ぬまでにやりたいことと、現実的な生活とのギャップに苦しみながら、胸が張り裂けるような気持ちで生きていたからです。

音楽家の夢を放り投げて、システム屋として就職した私の人生は典型的な例でしょう。とても幸せとはいえない生き方でした。結局、25年の歳を重ねてようやく勘違いに気づきました。私が得た教訓は2つです。

第一に、嫌なことから先に済ませようとすると、いつまでたっても嫌なことばかりする羽目になるということ。第二に、我慢するという受動的な態度でいると、他人の計画に組み込まれるだけだということです。

夢とは「いま死ぬほどやりたいこと」である

では夢とは、どこまでも空中楼閣のように非現実的で、人を惑わすだけの概念なのでしょうか。いいえ、いまの常識的な定義ではなく、もっとしっくりくる定義があると私は思います。

私が思うに、夢は「いつか死ぬまでにやりたいこと」ではなく「いま死ぬほどやりたいこと」ではないでしょうか。

いつかのためにいま我慢するのではなく、いまのために自分を解放するのです。そして、このような生き方を続けることで、いつか想像もできなかったような境地にたどり着けるのです。これこそ、夢という至福にピッタリな定義ではないでしょうか。

ですから、いまこの瞬間に情熱の炎でBurning!する生き方こそが、本当に夢のある生き方ってものでしょう。明日のために今日を売り渡すような生き方は馬鹿げてるじゃありませんか。

あなたなら分かってくれるでしょう?

貴下の従順なる下僕 松崎より

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システム系の専門学校を卒業後、システム屋として6年半の会社員生活を経て独立。ブログ「jMatsuzaki」を通して、小学生のころからの夢であった音楽家へ至るまでの全プロセスを公開することで、のっぴきならない現実を乗り越えて、諦めきれない夢に向かう生き方を伝えている。