私の愛しいアップルパイへ
今日はちょっとした告白と言いますか、個人的なお話をしたいと筆を取りました。個人的なことですから、あなただけにこっそりお話します。
スピリチュアルを馬鹿にしていた私が、スピリチュアルに救われた話についてです。これは去年、2021年に起こったことでした。
細く緩やかな生活を送る我が人生の取るに足らない走り書きとして、お暇な時に目を通していただけますと幸甚です。
スピリチュアルを馬鹿にしていた頃
私は長らく「スピリチュアル」の類を敬遠していました。正直に告白すれば、スピリチュアルを馬鹿にしていたと言っても良いでしょう。
「なぜか?」ですか。
まず、「いまここ」という紀元前から使い古されたありきたりの主張を中心に、「意識の上昇」などをはじめとする抽象的な言葉にこじつけて、説明に困ったら古びた宗教の格言でどうにかやり過ごす風態が好きになれなかったのです。
理にかなっていないのはまだよいとしても、論理的でも体系的でもなく、それどころか何かを言っているようで何も言っていない類の話と感じることも少なくありませんでした。
考えることに疲れた老人の思考停止、どう好意的に解釈しても古典的な宗教に一部インスパイアされた歴史の浅い神秘主義といった印象でした。
そのうえ、いかにも世の中を見通していますといったイメージ作りが鼻に付いたし、”界隈”の自分は気付いた側の人間とでも言いたげな選民思想然とした態度も受け入れがたかったのもあります。
その効能といえば「言っている側は気持ち良い」くらいのもので、思考停止していても注目だけはされたい人にとって手が出しやすいのであろうくらいに考えていたのです。
少なくとも、世のため人のため何かクリエイティブなものを作ろう、そのような労働に命を使おうと考えるうえで、有意義な知恵や知見にはまったく思えませんでした。
それは胡散臭い、怪しいというよりは、どちらかというと気の毒に思えたのです。
スピリチュアルな本を読むくらいなら、スペースオペラでも観ているほうがずっと有意義だと感じていたくらいです(そのほうが短時間で済むし、大抵似たようなこと言っているキャラクタが一人はいますから)。
おっと、失礼。悪気はないんです。
それに、これらは以前の私がそう感じていたというだけで、現在スピリチュアルに対してそのような先入観といったものはありません。
私がお伝えしたかったのは、私のスピリチュアルに対する精神的なガードというものは一般人のそれと同じか、それ以上に分厚かったのです。
ガードというより、もはやスピリチュアル・アレルギーに近いものがありました。
直感と感覚を疑う?
はじめてエックハルト・トール氏を知ったのはYouTubeでとある講演動画を観てからでした。それはまったく特別な出会いではありませんでした。人生に突然光が差したわけでもなく、気がついたら涙が溢れ出ていたわけでもありませんでした。
ただ、直感や感覚を疑えと説く切り口がユニークで記憶には残っていたのです。1
直感や感覚を信じることは何かと神格化されがちな対象ですし、何より直感はスピリチュアルの大好物だと思っていたものですから、印象的でした。
また、話し方が独特のテンポで興味を唆られました。今ではプレゼンのスタンダードとも言えるTED風の話し方とは真逆と言えるスタイルであったからです。
しかし、この段階ではこの動画の内容以上にエックハルト・トール氏の思想について追求することはありませんでした。というのも、エックハルト・トール氏の半生について読んだり、彼の主要な考え方をざっと調べたところで「ああ、これね…」とスピリチュアル・アレルギーが反応したわけです。
実際、一見すると彼の主張というのは他のスピリチュアルと比較してさほど大きな違いはありません。
- 過去や未来は存在しない
- 時間は幻想であり、人には現在しかない
- 他人は自分のエゴの鏡である
- 不安と恐怖は幼少時の痛みと共鳴している
- アイデンティティやそれを実現する目標などはすべてイリュージョンである
- 人間社会を形成する相対的な欲望を捨て、絶対的な真理に目を向ける
- すべての人間はすでに完璧であり、完全無欠である
- 「イマココ」に集中してみる
- 目標達成の手段だと思っていた動作に全神経を集中させてみる
- すべてのものが「ひとつ」であり、つながっている
- すべての意識とつながることで新たな次元が見える
- 最終的に「安らぎ」「喜び」「愛」の生き方が手に入る
講演や動画、著書のポイントをインターネットでざっと調べて箇条書にするとこのようになります。要するに、どれも典型的なスピリチュアルのそれです。
この時点で私はすっかり興味を失ってしまったのです。それからまた彼に興味をもつようになるのは半年ほど経過してからでした。
耐えがたい惨めさに苦しむ
その半年の間に何があったかを端的にまとめましょう。
それは言うなれば過去二年間の皺寄せが重なった時期でした。
遡ること2年半前、個人事業から法人化したのち、人を雇い始めたことで家計を大きく切り詰めたのです。もちろん事業成長を見越してのことであったのですが、2年間のうちに思ったように事業を成長させることができず家計の厳しい時期が続きました。
個人の収入はフリーランス時代の三分の一を下回り、その家計ではパートナーと二人の生活を支えることができずに貯金を切り崩しながら生活を続けていました。
正直に言えば、1年か2年でもとは取れるはずという甘い期待にすがっていたのです。そして、その後はフリーランス時代のように何でもかんでも自分でやらないといけない状況からも解放されると見込んだのです。見込んだというより、信じたといった方が良いでしょう。
しかし、もちろん人を増やしたところで簡単に収益が上がるわけではありません。収益を上げるための施策もあれこれ試したものの、思ったような成果を挙げられませんでした。
しかも、フリーランスのころと違って従業員分の利益も確保しなければならず、そのうえ金銭的な成果を挙げても個人ではなく会社に入るので、目いっぱい働いても収入が1円も上がらない状況でした。
働いても一向に豊かにならない日々が1年経ち、2年経ち、焦燥感で頭がいっぱいになるとともに強制労働でもさせられている気分になってきたのです。それまでの5年間は自由なフリーランスを謳歌していただけに、これは苦痛でした。
自分だけでなく、まだまだ社員にも十分な給料を払えていないという後ろめたさから、オープンな相談もできないでいました。
金の切れ目が縁の切れ目というもので、貯金が尽きるとともに約7年続いたパートナーと決別しました。
事業成長と収入が家庭に影響を与えたことで、仕事を恨むようになりました。
しかし、会社を拡大しようとしたことも事業成長を推進したことも、家庭生活にまで気が回らなかったこともすべて自分の力不足であったと考えるに至り、最終的に自分を恨むようになりました。
この時点で仕事と家庭と友情を1つにした生活の一番のリスクが顕在化しました。小さな綻び1つですべてが崩れ去ることです。
貧しく、疲れ果て、孤独でした。
自分は無能で、誰からも支援されず、生きていてもむなしいだけだという耐えがたい惨めさに苦しみ悶えました。
最初はどうにか誤魔化しながら仕事の立て直しに励んでいたのですが、ある晩寝るときになって涙が溢れ出てきてどうにもならなくなりました。
体も悲鳴を上げていました。気分転換に外へ散歩に行ったところ、はじめて胃の痛みに襲われて動けなくなりました。もう誤魔化せないと思いました。翌日から仕事を休むことを決めました。
しかし、休息は気休めにもなりませんでした。手を動かす必要がなくなると、ネガティブな方向にばかり頭が働いたからです。夜になると訳もなく泣きました。夜ベッドに入って、ベルリンで出会った新しいパートナーの隣で、バレないように声を押し殺して泣きました。
いよいよ自分ではどうしようもなくなって、医者を探し始めました。しかし、ベルリンで心療内科を探すのは一苦労でした。病院を探す元気がなかっただけでなく、治療費の支払が不安であったこともあり、病院探しは遅々として進まなかったのです。
これまで10年かけてどうにか築き上げてきたものが瓦解していく音が聴こえました。それどころか、間違ったものを築き上げてしまったような気すらしてきました。すべてのことが例外なく悪い方向に進んでいるという直感的な確信だけがありました。
自分の無力さにほとほと嫌気がさして、もうこれ以上1秒たりとも生きながらえることはできないと考えるまでに至りました。私は声を上げて叫ぶように泣きました。
私は人生の耐えがたい惨めさに大いに苦しみ悶えたのです。
自己、自分、個人、私、つまりエゴとの戦い
唯一幸いであったと言えるのは、私は問題が状況にあるのではなくエゴにあるのだと薄々勘づいていたことです。問題が次々に襲ってくるのではなく、あらゆる状況を問題視しようとしている自己意識こそ問題であると頭のどこかでは気付いていたことです。
つまり、上述したような、私が苦しみ悶えているドラマ化した物語のほとんどがエゴによる”でっちあげ”にすぎないことを分かっていました。
これはここまでで最も重要なことです。私の物語はすべてエゴによるでっちあげだと、どこかで気付いていたのです。この物語が正しかったのは唯一、私の頭が、私のエゴがその物語を信じていたという一点においてのみです。
ここでいうエゴとは、端的に言えば「自分」という概念です。「自己」「自分」「私」「個人」。世界と分割された単独の自分、他でもない自分という概念です。これがすべての元凶であることを認めていました。
しかし、知っていることと処理できることは大きく異なります。
想像してみてください。どんな状況であれ「問題はあなたの解釈にある」といわれてよい気がするはずありません。失ったものが大きければなおさらです。たとえあなたがそのようなアドバイスを思いついたとしても、口には出さないことをお勧めします。
一度確立した自己を捨てることは難しいものでした。いったい自己を捨てるなど、いかにして可能なのでしょうか。自己から逃れようとすればするほど、自己意識が主張してくるような気がしました。まるで皮肉過程理論のそれです。考えまいとすればするほど、考えてしまうのです。
「自己」「自分」「私」「個人」、どれも嘘っぱちで幻だと薄々は気付いていたのですが、それを捨てる方法がさっぱり分かりませんでした。他でもない私の頭がその存在とそれを支える物語を支持している以上、どんな”でっちあげ”のドラマでも無視できないではないですか。
しかも、その物語が完全なフィクションなどではなく、ある程度まで事実にもとづいているからタチが悪かったのです。エゴが作り出した物語にどれほど反論しようとしても、明日が入金期限である税金600ユーロを支払うだけのお金が口座残高にないのは現実なのですから。
そのうえ、今私を苦しめている自己意識はかつてある程度の成功を与えてくれていたので決別するのが殊更難しいものでした。
10年前、自分という自己意識をとことん信じた成果として、私は不本意ながら勤めていた会社から独立して満足のいくキャリアプランや人間関係を築けたのです。
悪い出来事や、その起因となるものを排除するのは難しくありません。難しいのは、ときおり良い出来事や成果を生んでくれた、その起因となるような信念を捨てなければならないときです。私はまさにそのような状況で葛藤していました。
毒なら捨てることに躊躇はしません。しかし、これまで見つけた中で一番の宝物がある日突然毒に変わったら、誰でも捨てることを躊躇するでしょう。
何かを得られないことより、すでに得ているものを捨てる方がずっと難しいものです。
ですから、巷でよくいわれる「イマココ」に集中する努力も自己意識の殻を破ることができませんでした。瞑想は毎日していたが気休めの域を出ないものであり、瞑想が終わるとすぐに「自分」「自己」「私」の存在と物語が戻ってきました。
なんと言っても感情がそれを許さなかったのです。思考と感情が1つになった心のパターンに抵抗するのは、非常に難しいことです。思考と違って感情は肉体的な反応も含むからです。
直感と思考を疑う
かくして私は「私」「自分」という自己意識が不幸にも自己破壊装置と化してしまった時の処方箋を探す必要に迫られました。
当初私は、かつてのように自己意識が正しい方向へ機能するよう努力することにしました。少なくともある程度まで、少なくとも5年くらい前まで私の自己意識は正しく機能していたはずなのです。
「もっと多く」を求め続けるエゴの期待に応えられているうちはうまくいっていたのです。ならば節度を知って、腹八分でも満足いくようになれれば良いのではないですか。
それなら自己意識を根本的に作り替えるおおがかりな仕事は必要ありませんし、ちょっとした変数の書き換えでチューニングできるはずだと私の直感と思考は言っていました。何かちょっとしたきっかけさえがあれば、抜け出せると信じていました。そのような変化ができることを過去の経験から直感的に分かっていたのです。
そんな希望的観測も虚しく、状況は日に日に悪くなっていきました。具体的には、仕事道具であるPCとスマートホンを開くのが億劫になり、人と話すことに強く抵抗を感じるようになりました。その日予定された会議が1つあるだけで最低の気分になりました。
夜は寝付けなくなり、毎晩のように泣きました。クリスマスを祝うライトアップがひどく乾いて見えたものです。
直感は自己意識をもっと柔軟性のあるものへと思考を育てあげる学習プロセスが必要だと提案していましたが、私はもう限界でした。人に相談するどころか、新しい本を手に取る気力すらありませんでした。
絶望的な気分の中で「はて」と気が付きました。確かかつて直感と感覚を信じるなと言った男が一人いたはずです。その男は頭脳というものがいかに自分を欺くかについて警笛を鳴らし、特に直感と感覚には用心するように語ったのでした。
かくして私は半年前に見た動画を再見し、彼の著書「ニュー・アース」を手に取りました。
エゴから目覚める
彼の本では「自分」「私」「個人」などの言葉によって思い描かれる哲学的または心理学的な自己意識である「エゴ」に注目し、いかにしてエゴとそれがもたらす機能不全から解き放たれるかについて書かれていました。
私は最初スピリチュアル・アレルギーに耐えながら、どうにか読み進めました。心底困っていたからこそ読み進められました。困っていなければ、最初の10%を読んだところで本を閉じていたことでしょう。
読み始めてすぐに大きな発見がありました。エゴを動力とする人間は絶え間なく続く思考の声に気付かなくなると言うのです(そしてそれはほとんどの人に当てはまります)。2
思考は声を通して人間を内側からコントロールします。その声は「次に何しようかな?」とか「何か忘れてることない?」「今日買い物に行かなきゃ」といったものから「あの人は許せない」「なんで自分がこんな目に?」といったものまで様々です。
エゴに頼っていると、このような思考の声が酸素だとか部屋で鳴り続けている冷蔵庫の稼働音のように、その存在に気付かなくなります。私などは、その一説を読みながら頭の中で「頭の中で絶え間なく声が鳴っているだって?馬鹿な」などと言っていたほどです。
実のところ思考の声はいつも無目的で無意味で自動的かつ反復的なパターンにすぎません。まるで壊れたラジオのようなものです。彼にいわせれば、消化や血液の循環とさほど変わらないものなのです。3
しかし、エゴは自分と思考を同一視しているため、このような無意味な思考の声を真に受けてしまいます。「もっとやるべきことがあるだって?他でもない自分が言うのだから本当なのであろう」と無防備に受け入れてしまうのです。
壊れたラジオから「お前は無価値だ」と流れてきても気にしないのに、思考の声が同じ内容を流すとすんなり受け取ってしまうのです。しかし、繰り返しますが、通常思考の声は無目的で無意味で自動的かつ反復的でほとんど使い物にならないのです。
それまでの実績の数々は思考が生んでいたから、少なくともエゴがそれを信じていたから、思考を信じきっていました。思考に頼り切っていました。
エゴは自分が本当の自分であることを証明するために必死ですから、自分と同一化できるものを無意識に探し求めています。対象がマイホームであれ、スーパーカーであれ、役職であれ学歴であれ国籍であれ、何でも同一化の対象となります。
エゴは「〜な自分」と言えるものを何でも取り込もうとします。かけがえのない自分と言う幻の自己意識を確固たるものにすべく、自分の一部にできるものを探し続けています。有形か無形かも関係がありません。それどころか、良し悪しすらも関係がありません。
エゴは手元に同一化できるものがなくなったとき、典型的な戦略として不幸なドラマを同一化の対象とします。ですから、エゴは必ずどこかで不幸を引き寄せます。「もっと多く」を求めるエゴの期待に答えられなくなった時、それはやってきます。不幸で惨めな自分という形で、簡単に自己意識を強化できるからです。
過去の経験に対する自分なりの解釈である物語は、エゴの大好物です。それが真実であるかどうかは問題ではありません。そして、物語は未来の見通しにも適用されます。自分は何をやっても駄目であったから、これからも駄目なのであろうと言うとき、エゴは物語を使って過去と未来を同一化の対象としています。
エゴの支配下にあるとき、人は過去と未来ばかりに目を向けます。幻の自己を前提とするエゴの原動力は、不足感だからです。
このような際限のない同一化の中で、思考が「本当の自分」などではないことをすっかり忘れてしまいます。いえ、最初から本当の自分など知らなかったのです。なぜなら、そんなものは存在しないからです。
エックハルト・トール氏はこのような状態を思考を使っているのではなく、思考に使われている状態であると表現します。思考は適切な状況の下でコントロールされていれば強力な武器となりますが、野放しにしていると人間に悪影響を与えるのです。4
意識による気付きが、いまに在る生き方を体現する
では、思考をコントロールするとはどういうことでしょうか。何が思考をコントロールするのでしょうか。
それはサルトルがデカルトの「我思う、ゆえに我あり」を否定したのと同じもの、思考の外側に存在するもう1つの自分、すなわち「意識」によってです。5
コントロールといっても、気付くだけでよいのです。無意識の思考に気付くのです。無意識の思考を観察するのです。光が当てられれば無意識の思考、つまり幻の自己であるエゴはもはや存在できません。
エゴを自覚することで、エゴから解放されるのです。
意識はエゴとともにエゴが作り出した過去の物語も解体します。物語とは、無意識の思考がエゴを確固たるものにすべく同一化の対象として案出したものだからです。
同じく不幸なドラマも解体します。ドラマもまたエゴが同一化の対象として案出したものです。
意識が無意識の思考、つまりエゴが作り出した同一化の対象を切り崩せば、いまこの瞬間を取り戻せます。意識による気付きだけが「いまに在る」ことを可能とするのです。
いまに在る生き方はエゴとはまったく逆のアプローチを取ります。それは状況に抵抗しない、判断しない、執着しないことです。
そのためにやるべきことは何もありません。ただ身の回りのことを意識するだけです。思考にとっては退屈極まりないものに意識を向けるのです。
たとえば、呼吸と身体に意識を集中してみることです。もしくは、これまで目的を達成する手段だと思っていた行動に、その行為自体に意識を込めるのです。
目的地にたどり着くためではなく、階段を1段ずつ登る行為そのものに意識を込めることを第一義的な目的とするのです。
まるで今突然この世に生まれたかのように日常を眺めてみることです。親切に対応する赤の他人のように自分を眺めるのです。
このように日常を意識によってコントロールさせると、無意識の思考が悪さをしなくなります。終わりのない同一化と人生のドラマ化に悩まされなくなります。
何も思考が悪いと言っているのではありません。観察されていない無意識の思考を野放しにするのをやめるのです。意識の光が当たった思考は本来の優れた機能を発揮します。
賢いあなたならもうお気付きのとおり、これは画期的な方法などではありません。昔から、少なくとも紀元前5世紀ころから語られてきた古典的な思想です。人によっては陳腐とすら思えるはずです。だからこそ見落としがちなのです。
しかも、いきなり変化できるものでもありません。私自身、初めは壊れたラジオに連日悩まされました。気が狂うかと思いました。しかし、本当に少しずつ、壊れたラジオは日常から遠ざかっていきました。今でも依然として壊れたラジオが流れてくることはありますが、さほど気にならなくなりました。
無意識の思考であるエゴの放棄はただちに実現できませんでした。というより、今でもエゴに悩まされることはありますし、おそらく終わりのない訓練でもあるのでしょう。
しかし、3ヵ月くらいかけて驚くほど状況は良くなりました。少なくとも、これまで感じたことのない安らぎに包まれたのです。これほどの安らぎはこれまで感じたことがなかったほどです。
エゴを強化すべく、自分と同一化するための行動や所有を放棄したことで、頭の中から自己破壊装置が廃棄されました。いまでもエゴの存在を感じる時はありますが、それが本当の自分などというものではないと気付けるようになりました。
この違いは大きいです。少なくとも、今後エゴが自己の確立を目的に決定的な自己破壊をしようとすることは不可能に近いでしょう。
変化は取るに足らないささいなところから始まりました。これまでの私といえば、トイレやシャワー室でもせっせと読書に勤しんでいたものです。トイレでこんなにも安らぎを感じることなどこれまでありませんでした。それどころか、安らぎが重要であることすら理解していなかったのでしょう。
安らぎとは、過去と未来の物語を解体して、いまに在ることでのみ得られます。それはエゴから解放されたサインでもあります。
意識による気付きに集中すると、その必然として「いまに在る」生き方へシフトします。これがあらゆる悩みを解放し、人生に底なしの豊かさをもたらすと今なら分かります。
「なぜか?」ですか。
理由など分かりようもありません。この後に及んで「なぜか?」は無粋な質問です。
「なぜか?」と問うのは思考の次元です。思考の世界とは、根拠の世界です。論理と時空、因果と理由を求める世界です。6
思考の外側にある意識は、思考による制約を受けないものですから、根拠をもちません。
ですから、「なぜか?」と根拠を問うのはナンセンスです。それよりも次の一呼吸に集中する方がずっと有意義であると、エックハルト・トール氏なら言うでしょう。
そういった理由からも、この手の話はスピリチュアル的にならざるを得ないのです。ここまで説明してきたように、ある程度のメカニズムを説明できますが、それは本質ではありません。
スピリチュアルな話をかつての私のように小馬鹿にする人もいるでしょう。しかし、スピリチュアルを馬鹿にしていた私がスピリチュアルに救われたようなケースも事実としてあります。
「思考」「自分」「私」という感覚が自己破壊装置と化してしまって困っている人へこの文章が役立つことを願います。もしあなたがそのような事態に陥ったら、思い出してみてください。
物語に対する注意書き
この文章は無意識の思考とエゴ、そしてそれらが固執する物語からの解放をテーマとしています。少なくともその第一歩を踏み出すことがテーマです。
文章の途中に用心深く注意書きを入れたつもりですが、重要なことですから、最後に改めて注意書きを書いておくことにしましょう。私はこう見えて心配性なのです。
もし万が一、この文章が感動的な物語だと感じたなら、それもまたエゴによる機能不全に他なりません。自分についての物語やドラマを語る時、すべてはエゴによる嘘っぱちです。それに反応するのもまたエゴです。
この文章から何らかの物語を感じとったなら、それもでっちあげです。物語だと感じた部分はすべて疑ってください。
一部、特に前半部分で物語のような書き方をしたのは、私がエゴから人生を眺めていた時の描写です。それは私個人としては備忘録ないし顛末書であり、または、同じように知らず知らずエゴに支配されて困っている人が理解しやすいプロトコルとして採用しました。
私の文章に限らず、エゴが作り出すあらゆる物語・ドラマを疑ってほしいと願っています。エゴはエゴを呼ぶものです。エゴはエゴの集団を作り出します。どんなに感動的な物語でも、人生を物語やドラマとしてとらえることは遅かれ早かれエゴによる機能不全をもたらします。
今日お話したような内容をもっと深く知りたければ、まずエックハルト・トール氏の「ニュー・アース」をお勧めします。この手の本で私がはじめて読了した本であり、物語を使った説得が皆無なのも気に入っています。
物語に対する注意書きを書いたところで、このお話の締めとしましょう。
貴下の従順なる下僕 松崎より
参考文献
- Can We Trust Our Feelings and Intuition?, エックハルト・トール, Eckhart Tolle (YouTube Channel), 2018/07/02
- ニュー・アース p.41, エックハルト・トール, サンマーク出版, 2008/10/25
- ニュー・アース p.130, エックハルト・トール, サンマーク出版, 2008/10/25
- さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる, p.38, エックハルト・トール, 徳間書店, 2002/06/30
- The Transcendence of the Ego, Jean-Paul Sartre, Routledge, 2004/06/15
- 充足理由律 | Wikipedia