環境に身を委ねる生き方は幸福なのか?

私の愛しいアップルパイへ

自由主義的ヒューマニズムが案出した「好きなことで生きていく」という標語を「好きな人が求めていることをやる」というドグマに置き換えることについては好きなことで、生きていく世界の終焉で詳しくお話しました。

この記事では続編としてそれをさらに深掘りし、人が求めていることをやる生き方が前者とはどう異なるかを明らかにし、とりわけどのような幸福をもたらしてくれるかについてさらに詳しくお話しましょう。

というのも、好きなことのために生きようが好きな人のために生きようが、やることが一緒ならどちらでもよいではないか。結局はどちらも同じことを言っているのではないか。と言った反駁と誤謬を解消するためです。

行動原理を自分にどう説明するかで結果が大きく変わる

本題へ入る前に前提事項を共有しておきましょう。頭の中で自分の行動をどう説明しているかが、人生の長期的な結果を大きく左右することについてです。これこそ、ドグマの書き換えに関わる一連の記事の最たる存在意義だからです。

好きなことをやることも、求められていることをやることも、やることが一緒ならどっちだってよいと考えるのは早計ってものです。

学習性無力感を発見し、アメリカ心理学会の会長を務めたマーティン・セリグマン博士は行動と報酬の繰り返しや遺伝的に組み込まれた個体差よりも、事象について頭の中でどう説明するかが結果を左右すると説きました。1

自分の行動とそれがもたらす結果について、どのような思い込みをするかで、落胆して諦めるか建設的な行動を取れるかが決まります。その「説明スタイル」が長期的に人生にまったく異なる結果をもたらすことになるのです。

自らが身を置く環境に身を委ねる

『好きなことを求める人に与える』のではなく、『好きな人が求めていることをやる』とは、前回述べたとおりです。それぞれの説明スタイルはどう異なるのでしょうか。

好きなことを求める人に与えるとは、自らの内なる感性に従う生き方と言い換えられます。個人の独自性を強調し、視線を自分の中へ中へと誘います。

対して、好きな人が求めていることをやるとは、端的にいえば自らが身を置く環境に身を委ねる生き方と言い換えられます。風に揺れる一枚の葉のように、流れる川の水滴の一粒のようにです。

葉は大気の流れに逆らったりはしません。水滴は川の流れに逆らったりしません。あるがままに、あるべきようにして、歓喜や不満を感じもせずにただただ存在しています。このような自然の在り方を不自由だ不幸だ退屈だと喚くなら、傲慢というものでしょう。

自然の真ん中にどっかりと座って周りを眺めるとき、存在というものに一切合切悩みもせず、ただそこにあって反応するだけの存在がなんと荘厳で神々しく映ることかとため息を漏らしたことがあるのではないでしょうか。もしかしたら、自分もそのような存在であったらどんなに幸せかと想像したことすらあるでしょうか。

しかし、考えてみてください。同じ物質的現象界に属する私たちがまったくそのような存在でないなどとなぜ言えるのでしょうか。

環境に身を委ねるのは自由意志の否定につながりはしないか?

環境に身を委ねることに抵抗感を覚える人は少なくないでしょう。無理もありません。私たちはこのような受動的な生き方に対して吐き気を催すほど強い抵抗を覚えるよう入念に教育されてきたのですから。

受動的な生き方はしばしば意志の弱さとして解釈されます。受動的な生き方を信念としていれば、「自分の意見を持ちなさい」「もっと主体性を持ちなさい」「本当にやりたいことはなに?」と、異教徒に出会ったかごとく声を荒げられることもしばしばです。

環境へ身を委ねるなどというと、敬虔な自由主義的ヒューマニストは即座に声を上げるでしょう。「それは自由意志の否定に他ならないではないか!」「自由意志の否定は人生に虚無をもたらす危険思想だ!」と。

自由意志の否定! まさにそれなのです! それこそがこの記事の主題なのです!

安心してください。私は”バランス”などという言葉を使うつもりはありません。自由意志を尊重しながら、そのうえで環境に適合する選択を両立するという、中庸は中庸でも凡庸という類の逃げ道を提示するつもりはないのです。あなたもご存じのとおり、私はやるなら徹底的にやるタイプですから。

自由意志の否定。これこそが環境に身を委ねる上での最大の難所であり、先に述べたドグマの書き換えにおいて私がまずもって乗り越えなければならなかった壁でした。と同時に、新しい地平へと到達する最高の推進力でもあったのです。

自由主義的ヒューマニズムにどっぷりと使った人は、自由意志の否定など到底受け入れられないと抵抗するでしょう。自由意志の否定などいかにして可能なのか想像すらできない場合もあるでしょう。他でもありません、かくいう私がそうであったのだからよく分かります。

しかし、一たび自由意志を疑ってみますと、それはまったく突飛な発想などではないことが分かります。それどころか、自由意志を尊重することがここ200年程度の一過性のブームにすぎないと気付きます。かつて人間は自由意志など微塵も信じていなかったのです。かつての人々がそれを自然に受け入れてきたのなら、私たちにできない道理はありません。

20世紀でも自由主義は環境決定論よりも少数派であった

自由主義について改めて考えてみましょう。自由主義は何よりも自由意志を尊重します。「あなたが感じていること、あなたが考えていること、あなたが望むことをやりなさい。あなたが直感と感性にしたがって自由に生きる時にこそ、最大の成果がもたらされるのだから」という具合です。

環境に身を委ねるのはこの自由主義の主張と真っ向からぶつかります。自由主義よりも、むしろその対局である環境決定論に近いといえます。これは歴史的に見て、自由主義の最大の敵ですらありました。

その最たる例は20世紀に表面化した自由主義と社会主義の対立に見て取れます。自由主義は自分の中に答えがあると教えますが、社会主義は自らが身を置く環境に注意を払うことを教えます。

考えてみれば当たり前のことです。どんな敬虔な自由主義者でも1980年代に東京で生まれるのと、ベルリンで生まれるのとでまったく同じ自分に成長するなどとは考えないでしょう。学校や職場や地域の影響を個人は免れ得ません。だから社会主義は自己の探求へ取り組む代わりに、環境と制度の改善へ取り組み、結束と平等を求めます。

2つの世界大戦の後、1970年代までは社会主義的な考え方が世界の主流でした。1970年代には130の独立国の中で自由民主主義を採用する国はわずか30でした。1970年代にギリシャとスペインとポルトガルが独裁政権を打倒するまで、自由主義はむしろ極めて少数派であったのです。2

しかも1970年代以降に自由民主主義が不死鳥のごとく蘇り主流になったのは、社会主義の思想を取り入れてからのことでした。教育制度の整備や国民年金保険、労働組合などの社会主義的な発想が安定をもたらしたのです。

とはいえ、自由主義的ヒューマニズムは既存の思想をアップデートして人類がたどり着いた最先端の主義主張なのだから歴史が浅いことは問題ではないと考えるでしょうか。もしそうなら、なおさら注意を払うべきです。

なぜなら、自由主義を支える自由意志がいま早くも危機に瀕しているからです。間もなくそれは古いバージョンの思想に成り下がる可能性が高いです。何かを信じることは人間のすばらしい能力ですが、反面、対象に対する信心を失いかけた時には足枷になりかねません。

科学とデータが自由意志を瀬戸際に追い込む

個人の自由意志という考えが大衆から支持されるようになってから早40年ほどが経ったわけですが、早くも瀬戸際に立たされているようです。なぜなら、自由意志を支える個人の自由意志という概念に疑問を呈さずにはいられない状況になっているからです。

科学とデータを何よりも重んじる現代においては、自由意志の非存在性が無視できない切迫感をもって私たちに迫ってきます。エビデンスの重要性は医療現場から始まり、教育とビジネスの領域へその活躍の場を広げ、私たち一般の市民生活においてもエビデンスという言葉が馴染み深いものになりました。

皮肉にも自由主義が推進した科学の手によって、いまや自由意志はまるでタバコの先から細々と立ち昇る白い煙のように曖昧でつかみどころがなく、頼りないものになりつつあります。

自由意志がいつごろから提唱されるようになったかは定かではありませんが、19世紀ドイツの哲人アルトゥル・ショーペンハウアーは神が死ぬ40年も前にはやくも「世界は私の意志である」(Die Welt ist mein Wille)と宣言しました。3

ところが彼は第1節でそう述べた後に、第55節で個人に自由意志は認められないと入念に補足しました。自由意志を生涯のテーマとしたショーペンハウアーが個人の自由意志を否定していることは注目に値します。4

自由主義の最盛期においてすら自由意志に疑問を呈する者はいました。自由主義の総本山であるアメリカを代表する作家マーク・トウェインは最晩年となる1906年に「What Is Man」(邦題:人間とは何か?)を発表しました。本書を通して彼は自由意志を真っ向から否定し、人間は蒸気機関車さながら環境に支配された機械であると説いたのです(なお、本書は彼の名誉を汚すとして当時は匿名で出版されました)5

2020年8月、アメリカ海軍情報局は未確認の飛行物体を観測した映像を分析するタスクフォース「UAPTF」(Unidentified Aerial Phenomena Task Force)を23億ドルの予算を組んで立ち上げました。つまり映像に記録されたUFOの分析です。67

UFOですら観測され、記録されているというのに、自由意志についてはどうでしょうか。自由意志などいまだかつて観測されたことがないではありませんか。自由意志が存在するのは大抵物語の中だけのことです。

それどころか、人々はこの200年を通して人間の行動は自由意志よりも、ホルモンや遺伝子やシナプスによって決定づけられると考えるに足るエビデンスばかり増えている有様です。それらは脳が生化学的アルゴリズムを経て決定したことを、”後から”自由意志として解釈しているにすぎないと主張します。

まるでジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」です。彼は本書を通して、16世紀以降に欧米人が”世界制覇”したのは生物学的な優位性があったわけでも文化的な優位性があったわけでも、ましてや他の人種より勤勉に働いたわけでも意志の力が特別強かったわけでもないことを解明しました。現代にも燦然と輝く欧米人の目を見張る功績の数々は、人類が到達した大陸の中で東西へと伸びる大陸にはじめて居を構えたという環境に主たる原因があると結論づけたのです(そして当然のことながら多くの欧米人たちを憤慨させました)8

ここで私は何も自由主義の存在可否について真実を明らかにしようというわけではありません。問題は、自由主義的ヒューマニズムをうまく機能させるには自由意志への信仰が必要不可欠であり、現代はそれに疑問を呈さずにはいられない流れが強まっている点にあります。

自由意志という迷信を打破する

1885年に哲学館大学(現在の東洋大学)を設立した井上円了博士は、迷信を打破するために妖怪の研究を進めた「妖怪博士」として知られています。彼は不可解な出来事を外界で起こる天狗や幽霊、他人を媒介する神おろしや幻術などと細かく分類したうえで、科学的見地から妖怪研究とその解明を進めました。9

なぜなら妖怪という迷信を信じている限り人々は思考停止に陥り、自ら真実を探求しようとしないと考えたからです。ちなみに、コックリさんのメカニズムを心理学的に解明した第一人者は彼です。

私たちは今一度彼に見習って、自由意志という迷信を打破しなければならないのではないでしょうか。

自由意志は自己の探求に熱心ですが、環境がもたらすメカニズムに余りにも無防備です。コカ・コーラが飲みたくなったのはそれが自分の本当の望みだからではなく、単にスーパーで目のつく場所に配置してあっただけの可能性があります。

事実そうなのです。現在スーパーでは野菜などの生鮮食品をまず配置し、右折させた後に冷凍ピザなどの不健康な食品を配置するのが通例です。こうしておくと、野菜などの健康的な食品を見たことでよいことをした気になるため、その直後には健康的でない食品を買い物かごに入れやすくなります。10

このような自由意志のハッキングは本人が無自覚なとき最も強い影響を与えるのだからタチが悪いのです。自由主義は資本主義による恣意的な働きかけの犠牲になりやすいといえます。「他でもない自分がそう感じているのだから」と欲求をやすやす受け入れてしまうからです。

自由意志がここまで市民権を得たのはそれが真実だからではなく、資本主義にとってはなはだ都合が良かったからだと考えることもできます。

COVID-19の世界的感染がその流れをさらに加速しています。サピエンス全史の著者として知られるユヴァル・ノア・ハラリ氏は、COVID-19が政府と国家による自由意志ハッキングの歴史において決定的な転換点になるとFinancial Timesで警告しました。11

これまでの政府と企業によるデータ収集は皮膚の上の監視にとどまっていました。画面のクリックやタッチです。これからはCOVID-19の感染経路をたどるという名目で、皮膚の下の監視も容易になります。心拍数、血圧、発熱やくしゃみや咳です。

そして、怒りや喜びや悲しみといった情動はくしゃみと同様の生化学アルゴリズムであるとする研究は着々と進んでいます。

これらは未知のウィルスに対抗すべく導入された一時的なテクノロジだからと楽観視してはいけません。歴史的にみても緊急事態で“一時的な“措置として導入されたテクノロジや政策が、その後に廃止されたケースはまれなのですから。

かくして現代の自由主義的ヒューマニズムは自由意志を信奉する一方で、自由意志を否定する情報とデータ、そしてそれを裏付ける日常的な行動と常日ごろから付き合わなければならない状況に陥っているわけです。スマートフォンをいじっていればいつでも自由意志とは無関係に“つい“やってしまう数々の行動と向き合わなければならないでしょう。

このような自由意志の信仰と否定の板挟みにあい、私たちは日常生活においてドとファ♯の音が同時に鳴り響いているかのような居心地の悪さを感じずにいられません。人は相反する情報や信念を持っていると認知的不協和に陥り精神的ストレスと不快感を覚えます。

私たちにはデータとエビデンスを覆すのは難しいでしょう。それならば、現代の高度な自由意志のハッキングに対抗するため、自由意志という迷信を打破することが近々の課題となります。

環境決定論は幸福をもたらすのか?

勘違いしないでください。私は僭越にもここで真理を探究したいわけでもなければよりよい社会制度を模索したいわけでもありません。私は哲学者でも政治家でもないのですから、それは私の仕事ではありません。

私はあくまで一市民として、いかにして現代の実際的な生活の中で心の安寧と幸福を手に入れたかについて書きたいだけなのです。

ここまで書いたことはそのために調べなければならなかったことのごく一部です。そこに至る過程などは別の記事として記述するつもりですが、まだ少しスペースが残っているようです。最後にここでは差し当たり一市民が環境に身を委ねる環境決定論的な生き方によって得られる幸福について述べることにしましょう。

果たして自由意志を放棄して環境に身を委ねることは、いかにして幸福を運んでくれるのでしょうか。

まず運命論と決定論が混同されないようにその違いについて明らかにしておきましょう。運命論は結果があらかじめ宿命的に決定されていると説くのに対し、決定論は物ごとに因果関係は認めますが結果があらかじめ決まっているとは考えません。むしろ結果はカオスに委ねられると考えます。

冒頭に述べた大自然の中での体験にもう一度目を向けてみましょう。名もなき草花の青と緑と茶色のコントラストにどっかりと腰を下ろし、太もものくすぐったいような感触と戯れながら自然の一部になったかのように座るあの体験です。

母親が我が子にささげる無償の愛のように全身に注がれる太陽の光。恋人に優しく頬を撫でられたときのような心地良い風の感触。揺れる木と川の流れが織りなす荘厳なオーケストラの調べ。自然は変化し続ける不変の存在として五感すべてを包み込みます。

次に何が起こるかまったく予測不可能のカオスです。これらはすべて自然界を厳格に支配するあのいつでも寸分違わず機能する因果の流れがもたらす結果に違いないのですが、それを空虚だとか不幸だとか思ったりはしないでしょう。むしろこの世の楽園とすら感じられるときがあります。

そこには個人の自由意志などは一切介在しません。しかし自然の一挙手一投足に好奇心をくすぐられ、脳が活性化し、はつらつとした新鮮な気持ちを味わうことができます。

味わう! これこそ自由主義的ヒューマニズムが見落としがちな幸福へ至る道ではないでしょうか。

自由主義的ヒューマニズムは自由意志が幸福の源泉だと考えがちです。しかし、実のところいつも幸福を運んできてくれているのは意志ではなく意識なのではありませんか。

大自然での体験は日常とは大きくかけ離れた特別な体験なのだから例外だとお考えでしょうか。では、もう少し日常的で身近な例をあげましょう。

Amazonのショッピングサイトでお勧めされた書籍を買ったことがあるでしょうか。これは環境のメカニズムに身を任せた行為に他なりませんが、自由意志を侵害されたと憤慨したりはしないでしょう。むしろ、自らの発想の外にある新しい本との出会いにワクワクするのではありませんか。

書籍を選ぶなどということは、幸福を左右するでもない微細なことだから抵抗しないだけだとお考えになるでしょうか。賢いお方です。それでは、結婚ならどうでしょうか。

コロンビア・ビジネス・スクールの教授であるシーナ・アイエンガー氏は恋愛結婚とお見合い結婚(取り決め婚)の幸福度の違いを調査し、お見合い結婚の方が幸福度は高まると結論づけました。12

正確には、恋愛結婚は最初高い満足度を示すのですが、時間とともにスコアは減衰して10年後には当初の60%ほどまで下がっていました。お見合い結婚は最初こそ恋愛結婚ほど高い幸福度を示しませんが、時間とともにむしろスコアは上がって10年後には当初より高い満足度を示しました。

その理由としては、恋愛結婚は結婚がゴールだと考えるのに対し、お見合い結婚は結婚がスタートだと考えること。相手に過度な期待をしないこと。時間をかけてゆっくりと関係性をはぐくもうとすることなどの傾向が挙げられます。

興味深いことに、同じくシーナ・アイエンガー氏は生命の選択についても述べています。重病の我が子に延命措置を続けるか否かを、医師に委ねることが通例となっているフランスの場合と、親自身で選択することが通例となっているアメリカの場合とで比較調査したのです。結果、親自身で選択した家族の方が長い間はるかに高い否定的な感情を表明していました。我が子を亡くしてから一年が経った後、医師の判断に従ったフランスの親たちは「こうするしかなかった」と受け入れていましたが、自身で決断したアメリカの親たちは「こうすべきであったかもしれない」という思いにとらわれていたのです。1314

自由主義的ヒューマニズムの観点からは受け入れがたい結果でしょう。環境決定論は人間が環境の奴隷に成り下がることだとネガティブに捉えがちだからです。私が言いたいのは環境に身を任せることのポジティブな面を享受する環境決定論です。

このポジティブな環境決定論とは、人生にいったいどのような幸福をもたらしてくれるのでしょうか。

自由主義は個人の独立性を強調しますが、他方、環境決定論は環境への同化を強調します。

自由主義的アプローチの中心は挑戦と進歩にあります。達成ではなく進歩であることに留意してほしいところです。自由主義は独立性と自由意志を核とするので本質的に達成もしないし満足もしません。

他方、環境決定論的アプローチの中心は調和と満足にあります。時間をかけて環境と同化し、予測不能なカオスを味わいながら調和を目指すことで満足へと至ります。自然に包まれたときのように、環境に身を委ねる行為を味わうのです。

こういうと身近で素朴な日常に満足しろと諫めているように思われるでしょうか。なるほど自由主義は自らの本当の望みを見極め、それを自らの手で実現する高揚感を断続的にせよもたらしてくれます。環境決定論はそれを超えるほどの何かをもたらしてくれるものでしょうか。

よい質問です。それはたしかに存在すると私は確信しています。ポジティブな環境決定論がもたらすその最高のものを、私は次のような言葉で表現しましょう。

「自分の一部だと思えるような他人がいること」

これです。

貴下の従順なる下僕 松崎より

参考文献

  1. マーティン・セリグマン, オプティミストはなぜ成功するか. パンローリング株式会社, 2013.
  2. ユヴァル・ノア・ハラリ and 柴田裕之, “ホモ・デウス 下 テクノロジーとサピエンスの未来 ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来,” 2018, Sep. 06, 2018.
  3. 意志と表象としての世界〈1〉 (中公クラシックス) 第一節
  4. 意志と表象としての世界〈1〉 (中公クラシックス) 第五十五節
  5. マーク・トウェイン, 人間とは何か. 1973,
  6. Establishment of Unidentified Aerial Phenomena Task Force > U.S. DEPARTMENT OF DEFENSE > Release
  7. US UFO-report boldly goes where no one has gone before | Science| In-depth reporting on science and technology | DW | 02.06.2021
  8. ジャレド・ダイアモンド and 倉骨彰, “銃・病原菌・鉄 1万3000年にわたる人類史の謎, 草思社文庫, Feb. 02, 2012.
  9. 井上 円了, “妖怪学, 1891.
  10. チャールズ デュヒッグ and 渡会 圭子, “習慣の力,” ハヤカワ文庫NF, Feb. 28, 2012.
  11. Yuval Noah Harari, “the world after coronavirus,” Financial Times, Mar. 20, 2020.
  12. シーナ・アイエンガー and 櫻井 祐子, “選択の科学,” 文藝春秋, Nov. 12, 2010.
  13. シーナ・アイエンガー and 櫻井 祐子, “選択の科学,” 文藝春秋, Nov. 12, 2010.
  14. Sheena Iyengar, Assisted suicide and ‘free choice’ – CNN.com, May 05, 2010.
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システム系の専門学校を卒業後、システム屋として6年半の会社員生活を経て独立。ブログ「jMatsuzaki」を通して、小学生のころからの夢であった音楽家へ至るまでの全プロセスを公開することで、のっぴきならない現実を乗り越えて、諦めきれない夢に向かう生き方を伝えている。