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私の愛しいアップルパイへ
ジェームス・スキナー氏の「100%」を読んでいたら、こんな1文が目にとまりました。
けっきょくのところ、人生の生き方は、ふたつしかない。
好きなことをすべてやって、ほしい結果をひとつも手に入れないという生き方と、必要なことをすべてやって、ほしい結果をすべて手に入れるという生き方のふたつである。
最初はどうにも腑に落ちなかった1文でしたが、時間が経つにつれてなるほどなと思うようになりました。
好きなことをやるかどうかは重要ではない
- 好きなことをすべてやって、ほしい結果をひとつも手に入れないという生き方
- 必要なことをすべてやって、ほしい結果をすべて手に入れるという生き方
本書では上記のとおり生き方を2つに分けて説いています。当然、後者が好ましい生き方というわけです。字だけ見れば好きなことをやる生き方は間違っているということになります。
好きなことをやるべきだって主張は様々な人が好意的に解釈していますし、私も望ましいことだと考えていたので興味を引きました。
この前後に本書では以下のように書かれており、それを読むと理解が進みます。
誰にでも、調子の悪い日がある。
やりたくないと思うときがある。
成功するために必要な作業で、どうしても好きになれないものもあるだろう。しかし、成功者は、その「嫌いという気持ち」を自分の「目的意識」に服従させて、望む結果の原因をつくるようにしている。
100% by ジェームス・スキナー
つまり、好きかどうかの問題ではないということです。大切なのはむしろ、目の前の作業が好きかどうかに左右されないことです。
「嫌いという気持ち」を自分の「目的意識」に服従させる
たしかに考えてみれば、私も好きなことをやっていたいわけではありませんでした。
収入を得るための交渉も、朝早く起きることも、時間を豊かにする取り組みも、様々な健康管理も、人間関係を構築することも、頭の中を整理するためのアウトプットも、システム屋から音楽家へと向かう道のりは単体でみれば辛いことや苦しいことばかりでした。
好きなことといえば、ゲームをやることだとか、馴染みのバーでビールを飲むことだとか、夜な夜なホラー映画を観ることです。これらは間違いなく好きなことであり、同時に楽なことでもあります。目的を考えれば必要性は薄いでしょう。というより、目的からの逃避行動とも考えられます。
そう考えると、好きかどうかに限らず、たとえ嫌いなことでも自分の目的意識のもとで実行に移すのが、理想的な生き方といえます。
そして、そういった意義深い生き方をすることの総体が好きだという構図が、「好きなことをやる」というメッセージに込められた真意でしょう。
ですから、好きなことをやるという表現はある意味では間違っていて、これを省略して単に「好きなことをやろう」とすると、分かる人には分かり、分からない人には分からない話になってしまいます。
もう一度100%を引用して終わりとします。
けっきょくのところ、人生の生き方は、ふたつしかない。
好きなことをすべてやって、ほしい結果をひとつも手に入れないという生き方と、必要なことをすべてやって、ほしい結果をすべて手に入れるという生き方のふたつである。
貴下の従順なる下僕 松崎より