jMatsuzakiさんのブログをご覧のみなさま、こんにちは、こんばんは、そしておはようございます。
音楽家でライターのhaLuna(ハルナ)です。
▼前回のインタビューではミッションステートメントの効果や表現の仕方について聞いてみました。
タスク管理とミッションステートメント。信条・宗教観とのすり合わせ(前編)〜jMatsuzakiに聴いてみよう!vol.3〜
今回は、ミッションステートメントについてのインタビュー後編ということで、より突っ込んだお話を聞いてきました。
どうぞ、最後までおつきあいいただければ幸いです。
宗教観とミッションステートメント
ここからいよいよ、haLunaが最も聞きたかった宗教観とのすり合わせについてお話を伺っていきます。
前回もお話しした通り、私はクリスチャンです。
キリスト教的な考え方では、やってくるものにYesと言うというか。「道」を決めるのは自分ではないという意識がけっこうあるんです。
盲目的なわけではないし頭も使う、思考停止という意味ではなく、頭も心も与えられたものは全部使うというのが「フルに生きる」ということだと捉えてはいるんですが、一方で、自分の人生をこうしたい、こう進めたいっていう風に、自分の表面的な意志で決めてしまうことに、ちょっと抵抗があるというか。
……ただ、ここまでお話をお聞きして、そこは柔軟性と一貫性のバランスで解決できる問題なのかなとも、今ちょっと思っているんですけども。
おそらく、「こう成っていなければならない」「このジャンルでこういう成功をおさめていなければならない」というものがミッションステートメントというわけではないんですよね。
その人なりの大きなYesっていうものを自分の行動指針するような、結果の部分ではなくて立ち方というか、姿勢の部分を決めていくものっていうことなんでしょうか。
「そうですね……多分なんですけど、ミッションステートメントっていう考え方と宗教的な教義って全然バッティングしないはずで。
あくまで、その教義に基づいたミッションステートメントを書けばいいっていうことだと思うんですよね。それはキリスト教だからユダヤ教だからとか、あまり関係なく」
そういえば、『7つの習慣』の著者であるスティーヴン・コヴィー氏はモルモン教(※キリスト教系新宗教に分類される)でいらっしゃいましたね。
「これも面白いんですけど、『7つの習慣』って、非常にキリスト教義的すぎるっていう批判があるんですよ。これはコヴィーさんが熱心な信徒なので、そういう側面があるんだと思うんですけど」
ああ、たしかにそれは、読んでいてとても感じました!
「なので、宗教を自分の中に強く持っている人は、この手の本の中ではわりと相性がいい気はしますね」
ミッションステートメントは価値観の表明
自分的にちょうどいいな思っているラインが“人事を尽くして天命を待つ”みたいなことなんですけど。
たとえば、努力をすれば報われるっていう文脈があるじゃないですか。でも実はそれってすごく不確定な要素で、努力したからって報われない(結果が伴わない)こともたくさんあって。
だからこそ、報われるために努力するというよりは、あくまで結果は結果でしかなくて、やれることをただやって、結果それが順当に報われたように見えたらそれはとてもありがたいことだと思って受け取るっていう考えなんです。どちらかというと。
だから、努力とか「こうなりたい」って思うこと自体を否定的に捉えているわけではなくて、社会的成功を否定する気持ちも全然ないんですけど……。
そのへんでうまく折り合いをつけられれば、私もミッションステートメントが書けるかなっていう気がしてきました。
「ミッションステートメントって価値観の表明なので、“死ぬ時にどうなっていたいか”みたいなことはあんまりないんですよね。目標ではないので。
自分は何に基づいて、何のために自分の貴重な命を使っていきます、っていう価値観の表明なので。
たとえば“死ぬまでに年収一千万になる!”みたいなことはあんまり書かないという(笑)。
むしろそれは、ミッションステートメント的じゃないです」
まさに、“どうなりたいか”ではなく“どうありたいか”っていう部分ということですね。
「なので、宗教的な教義とはあまりバッティングしないように思いますね。
このへんは非常に面白いラインだと思います。コヴィーさんがキリスト教的なことを念頭に置いていたっていうこともあると思うんですけど」
死ぬ時に、人に好かれて囲まれていたいっていうことは書けなくても、人にやさしくありたいっていうことは書けるというような。
「そうですね。
そこは、ちょっと捉え方を間違っているというか、違った書き方をする人もいますね」
結果を重視して、それに向かって努力をするんだっていう。
「そうそう。
結果っていうのは、まあその結果を想像して、だいたいこんな感じっていうところから、その原因となる人格の価値観を深掘りしていくために使うのはいいと思うんですけど。
結果に軸が移ってしまうと、軸がブレてしまうかなっていう」
人格主義、という考え方
「『7つの習慣』には“人格主義の回復”っていう副題があるんですけど、それはまさに結果じゃなくて原因に目を向けましょうっていう考え方で。
結果はもう、どうでもいいというか。ある意味自然の、我々がコントロールできないものであると。それを無理矢理コントロールしようとするのは、違うと。
結果がどうであれ、望ましい結果を生む望ましい原因を作っていきましょう、それが人格である、っていう考え方なんですよね。
で、望ましい人格を身につければ、自然にそれを反映した結果は出るはずだから、そこ(結果)に気を向ける必要はない、と。
これはでも、僕の印象としては非常にプロテスタントが生まれたときの考え方に通じるなと」
そうですね、そうですね。……私カトリックなので若干の気まずさはありますけど(笑)。
いやでも、プロテスタントのその動きがあったから今のカトリックがあるので、逆に感謝しかないというか(ここからしばし宗教改革談義がありますが割愛)。
どんな形で書けばいいのかは、人それぞれ
ちなみに、ミッションステートメントの分量は、やっぱり人それぞれなんでしょうか?
ものすごく短い人もいる?
「それぞれですね。短い人もいます。たぶん、ほんとに一文だけの人とかもいると思います。
あとは、僕はけっこうキッチリカッチリ文章で書く派ですが、詩みたいな感じにしている人もいるし、これは本の中でも書かれているんですけど、音楽の人もいたはずです。
本なので、当然その音楽は聴こえないので、ミッションステートメントの音楽ってなに?って感じになっちゃいますけど(笑)。あとは絵とかね」
本当に色々なんですね。
音楽や絵っていうのは、直感的なというか、右脳的なというか。……それを読み解けるのはその人だけという?
「うん。それでいい気がしますよね」
まとめ:これなら書けるような気がしてきた、haLuna所感(と、次回予告)
私は以前、ひらめきラジオ(毎週月曜朝6:00から放送しているYoutubeラジオ。視聴者に「お題」が出されたりする。詳しくはこちら)のお題で、「あなたの基本理念はなんですか」というお題に対して「誇り」という言葉で回答したことがありました。
それは、なにか自分が行動をするときに、それちゃんと誇りを持ってやれる? 誰かの誇りを同じように尊重できる? という問いかけです。
たとえば、インタビューの中で出した「人にやさしく」っていう例も、自分の中ではそこ(誇り)につながっている気がしています。自分に恥じないことというか。
ただ、「誇り」っていう一言では広すぎて、流動的な部分が残っているかなという感じもあるので、そこを練ってそういうことをひとつひとつ明文化してみると、自分にとってちょうどいいサイズ、ちょうどいいフィット感のミッションステートメントになっていくのかなと感じました。
是非とも、チャレンジしてみたいと思います。
次回は、ここまでのインタビューの総括として、タスク管理を通して見えてきたjMatsuzaki氏の魅力について、haLunaが感じたことを書いてみたいと思います!
今回もお読みいただきありがとうございました。