私の愛しいアップルパイへ
私は生まれてから最初の25年間、こう思って生きてきました。この世のあらゆるものが論理的に説明できるように、幸福も論理的に導き出せるはずだと。
同級生と仲良くやって、教師に気に入られ、テストで良い点数を取れば良い成績が手に入る。良い成績があれば良い学校に入れる。良い学校に入れば良い会社に入れる。良い会社に入れば豊かな生活が得られる。豊かな生活が得られれば幸福である。というふうにです。
この試みは見事に失敗しました。理にかなった選択を続けた結果、いつのまにやら望みもしないような人生を生きていました。ガッデム!
論理的思考とは根拠があるということ
私は論理的に考えるということは、世界を正しく認識することだと思っていました。いまならよく分かります。論理的思考には落とし穴があったということです。
論理的とはどういうことでしょうか。簡単にいえば論理的であるということは明らかな根拠があるということです。では根拠があるとはどういう状態でしょうか。
根拠とはなにかについては、17世紀のドイツの哲人ライプニッツが称えた充足根拠律が有名です。そして、この充足根拠律を鋭い視点で発展させた19世紀のドイツの哲人ショーペンハウアーは「根拠律の四つの根について」という論文のなかで、根拠があるということを以下の4つに分類しました。
生成の充足理由律 – 「新たな状態には、充分な先立つ状態がある」(原因結果)
認識の充足理由律 – 「ある判断がある認識を表現するには、その判断はある規則に従っていなければならない」(論理)
存在の充足理由律 – 「時空間に存在するには、位置や継起の関係において規定しあう」(数学)
行為の充足理由律 – 「行為にはある充分な動因がある」(理由帰結)
根拠とはつまり人間の認識能力の限界である
では論理的であるということ、つまり根拠があるということは、どのような意味をもっているのでしょうか。
私は論理的であるということは世界の正しい仕組みのことだと思っていましたが、ショーペンハウアーの結論に衝撃を受けました。私が失敗した理由と、論理的思考の落とし穴について見事に言い表していたのです。
物質的なものはさまざまな制約を受けきわめて間接的に与えられたもの、したがって単に相対的に存在するものにすぎない。なぜなら、物質的なものは、脳の機構と工程とを一度はくぐり抜けているからである。つまり時間、空間、因果性といった形式へ一度は入り込んでいるからである。この形式の力を借りて、物質的なものははじめて空間のなかで広がりをもち時間のなかで働くものとして示されるようになるのである。
意志と表象としての世界 第一巻 第七節
端的にいえばこういうことです。論理的である(根拠がある)ということは、人間の認識能力の限界にすぎない、と。
では、論理が人間の認識能力の限界にすぎないとして、なぜ論理的思考ではうまくいかないのでしょうか。ショーペンハウアーは続けてこういいます。根拠にとらわれない唯一のものが「意志」であると。
論理的思考ではうまくいかない理由がここにあります。仕事も家庭も会社も法律も宗教も人間関係もマーケットも、人間社会の基礎を作っているものはすべて、その根拠にとらわれない「意志」なのです。
貴下の従順なる下僕 松崎より