人はなぜ笑うのか?いつ笑うのか?笑いのメカニズムとは?ユーモアの役割とは?

私の愛しいアップルパイへ

音楽、ひいては芸術について考えるとき、避けては通れない現象の1つが「笑い」でしょう。喜劇をはじめとして、芸術と笑いは密接なつながりをみせてきました。

今日は「笑い」という現象がなぜ起こるのか?どのような時に人は笑うのか?についてあなたと話しながら整理していこうと思います。

理性の働きから笑いを紐解いた哲学者ショーペンハウアー

人に笑いに関して論じた者は多いですが、特に私が今まで読んだ中で最も詳しく、かつ納得のいく説明をしてくれたのは19世紀のドイツの哲学者であるアルトゥル・ショーペンハウアーでした。

プラトンを始め哲学者には笑いについて語った人が数多くいますが、ショーペンハウアーは人間の理性の働きから分かりやすく笑いの本質的なメカニズムを説明してくれます。

ショーペンハウアーの代表作である「意志と表象としての世界」の第十三説に詳しく述べられています。もちろん本書は笑いについて書かれた本ではなく、悟性や感性や理性や直感や感情や意志といった人間の様々な活動とその相互関係について解説した本なのですが、その一説で笑いについても論議を展開してくれています。ナイス!

本書はショーペンハウアー用語が多いので、本書のこの章だけ読めば笑いについてよく分かるという類のものではありません。ですから、本書の笑いについての考察をかいつまんで説明しつつ、笑いというものについて考えていきましょう。

笑いは理性の機能の一部である

基本的に笑いというものは人間特有の現象とされていますが、その理由は笑いが理性の機能の一部であるからです。

では、そもそも人間特有の機能の1つである「理性」とは一体なんなのでしょうか?さっそくミノタウロスの迷宮に迷い込んだ感じがしますが、ご安心ください。ここはショーペンハウアー先生がたったの一文で簡潔に答えてくれています。

理性のもつ機能もやはり一つなのだ。概念の形成、これである。

意志と表象としての世界 第八節

理性という複雑怪奇をたった1つの機能に還元してしまう思い切りの良さ!視点の鋭さ!Cooooool!

つまり、客観的な事象から抽象的な概念を作り出すのが理性ということになります。例えば、道端に転がっている固い塊を「石」という抽象的な概念で認識できるのが理性の力ということです。理性が概念を作ってくれるおかげで私たちは1つ1つの事象にいちいち囚われることなく、思考の幅を広げていけるってわけですね。Greeeeeat!

そして笑いはこの理性が概念を作り出す運動の中で起こる現象の1つなのです。

笑いは現実と概念の不一致によって起こる

では笑いはいつ、なぜ起こるのでしょうか。これもショーペンハウアー先生が簡潔に説明してくれます。

笑いが生じるのはいつでも、ある概念と、なんらかの点でこの概念を通じて考えられていた実在の客観との間に、とつぜんに不一致が知覚されるためにほかならず、笑いそのものがまさにこの不一致の表現なのである。

意志と表象としての世界 第十三節

少々言い回しが小難しいので補足しましょう。先に述べた通り、ある現実的な事象を理性が知覚すると概念が作り出されます。しかし、当然ながら概念というのは全てを包括した物ではなく、一面を捉えたものに過ぎません。ショーペンハウアー先生は現実と概念はある物体とそのモザイク画の関係に似ていると表現しています。

ですから、最初に作られた概念と不一致な現実が発生することはよくあることで、現実と概念に不整合が起こることがあります。笑いとはこの現実と概念の不一致の表現であり、不一致の幅が大きければ大きいほど笑いも大きくなるのです。

例えば、道を歩いていて、綺麗な形をした石だと思って手にとったものが犬の糞だったらつい笑ってしまうでしょう。これは石という概念と、犬の糞という現実の不一致によって起こった笑いなのです。

現実と概念の不一致によって笑いが起こる例

現実と概念の不一致。これが笑いというものであり、すべての笑いはここに帰結します。ショーペンハウアー先生も自信を持ってこう言っているくらいです。

おかしさの実例として色々な逸話を出して、以上の説明を解明して時間を費やすようなことはここではしないでおこう。わたしの説明はしごく簡単で分かりやすいから、およそそのようなことは必要ではない。

意志と表象としての世界 第十三節

ただ、ショーペンハウアー先生は優しいので、続けてこの考え方から自然と生まれる2種類の笑いについて追加で説明してくれています。

  • 第一は、2つのまったく異なる現実が意図せず1つの概念に包括されてしまった場合で、これを「機知」と名付けました
  • 第二は、概念によって目の前の現実を認識しようとしているとき、不意に現実が概念の範囲を大きく飛び越えてしまう場合で、これを「阿呆」(痴愚、愚行)と名付けました

例えば分かりやすい例でいうと、一休さんがやるような「頓知」や、落語家がやるような「なぞかけ」、「ものまね」や「ダジャレ」などは機知の笑いといえるでしょう。

「このはしわたるべからず」という言葉(概念)が、橋を渡らないという現実と橋は渡るけど真ん中は渡らないという現実の全く異なる2つの現実を包括しているためです。

または、朝礼で壇上に上がるときに校長先生が階段でつまずいて転んだら大勢の生徒は笑うでしょう。これは阿呆の笑いといえます。

「校長先生とは威厳ある大人の見本であり、凡人がするようなミスとは無縁である」という概念を通して校長先生を眺めていたら、全くその期待を裏切るような行動(ここでは子供でも登れるような階段でつまずくこと)によって現実と概念の不一致が発生したためです。

笑うたびにこのように理性的に笑いを理解しようとするのは面倒ですが、時々思い出したときに笑いを眺めてショーペンハウアー先生の論議に当てはめてみると、その正しさが分かってくるので試してみてください。

概念が作り直されるプロセスの最初に起こるのが「笑い」

ここまででわかるのは、笑いというのは既存の概念では包括しきれない現実に直面したときに発生するものだということです。そしてそれは現実に対してもっと正しい概念を作り直そうとするトリガーともいえます。

最初は笑い転げたことも2回目ではすっかり笑えなくなってしまうことがあるでしょう。試しに漫才を2回続けて見てみてください。2回目の笑いはひどく小さくなるはずです。

それもそのはずで、笑いが起こったと同時に理性は現実と概念の不一致を解消するべく、現実をとらえ直してより正しい概念にアップデートしてしまうからです(上述した通り、理性の機能とは現実から概念を作り出すことなのですから)。

校長先生が転んでも他の先生がさほど笑えないのは「大人でも注意が行き届かなければミスするものだ」という概念がすでに定着しているからです。また、最初に校長先生が転べば笑えるかもしれませんが、毎月転ぶようであれば生徒にとってもすっかりそれが概念化されてしまい、笑いが起こることはなくなります。つまり笑いは新しい概念の発見であり、知覚の扉でもあるといえるでしょう。

そういう意味では心理学者であるヴィクトール・フランクル氏がユーモアの役割についてこう言ったのも頷けます。

ユーモアも自分を見失わないための魂の武器だ。ユーモアとは、知られているように、ほんの数秒間でも、周囲から距離をとり、状況に打ちひしがれないために、人間という存在にそなわっているなにかなのだ。

夜と霧 第二段階 収容所生活

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笑いと芸術が密接につながっている理由

最後に笑いと芸術についても簡単に触れておきましょう。以下の記事でもお話しましたが、芸術とは換言すれば「日常に隠れている意義深い”ものを発見し、その本質的な特性、独自の優越性や純粋性を際立たせて、誰にでも直感的に知覚させやすくする活動」といえます。

目的は違えども、現実をとらえ直して概念をアップデートする「笑い」の機能とかなり近いといえます。日常から意義深いものを見つけ出してユーモアで芸術を表現するというのは芸術的観点から見ても大変合理的な表現手法の1つだといえるでしょう。

チャップリンがコメディアンでもあり芸術家でもあるのは、ユーモアを通してすでに現実と一体化してしまった概念を捉えなおさせ、再構築させ、それによって日常に隠れた意義深さを再発見させてくれるからなのです。

そういうわけで芸術に笑いを用いることもあれば、笑いが芸術的にもなるわけですが、本質的に両者はまったく異なる活動であることも確かです。今日はいい時間ですから、芸術と笑いの相違点については別の記事でお話しすることにしましょう。

貴下の従順なる下僕 松崎より

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システム系の専門学校を卒業後、システム屋として6年半の会社員生活を経て独立。ブログ「jMatsuzaki」を通して、小学生のころからの夢であった音楽家へ至るまでの全プロセスを公開することで、のっぴきならない現実を乗り越えて、諦めきれない夢に向かう生き方を伝えている。