私の愛しいアップルパイへ
音楽をもっと楽しむために音楽史について知りたいと思いましたか?大変鋭い視点です。まさに音楽は、ひいては芸術は歴史と切っても切り離せません。ですから美術史や音楽史について知ることは、芸術をもっと楽しめるようになるスパイスというより、芸術を楽しむ行為そのものといっても過言ではありません。
とはいえ、人間の歴史は私たちのデリケートな脳内に入れるにはあまりに長く、なかなか理解するのは困難です。「10分〜20分くらいで概要がつかめればいいのに…」。あなたのそんな声が聞こえてきそうです。
そこで立ち上がりしはjMatsuzaki!これから3つの記事を通して、たった20分で音楽史をざっくり掴めるようにご紹介いたします。数千年の歴史をたったの15分で理解できる大変チャレンジングな記事をお届けしましょう。当然ざっくりとしか大筋を伝えることはできませんが、それでもきっと役に立つでしょう。
そんなことは不可能ですって?まぁまぁ、まずは話を聞いてみてください。さぁ、20分タイマーをセットして。アブラカタブゥラッ!
▼連載のバックナンバーはこちら。
- 古代の音楽〜初期キリスト教音楽
- 中世の音楽〜バロック音楽 ← Just Now!!!
- 古典派〜現代の音楽
紀元前3,000年:エジプト・メソポタミアの音楽
驚くべきことに初期の楽器は旧石器時代にすでに存在していたといわれています。新石器時代には管・弦・打楽器のごく初期のものが出揃っています。その後、四大文明が起こりますが、その中で最も音楽が発達していたのはナイル河畔で栄えたエジプト文明でした。
エジプト初期王朝時代にさしかかる紀元前3,000年頃のエジプトでは、神の化身とされるファラオのもと、狩猟や農耕などの行事、宗教や国家的な儀式などで音楽が用いられていました。楽器もオーボエ、トランペット、ハープ、リュート、ベル、シンバルなど基本的なものは揃っていたそうです。
チグリス・ユーフラテスの両川域では同じ頃シュメール人を起点として、メソポタミア文明が形成されていますが、エジプト文明はそれと比較してはるかに高度に発達していました。メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明はそれぞれ交易しあうなかで各文明の音楽が混ざり合いながら理論、楽器が進化していきます。
当時は記譜法が確立されていないため、どのような音楽が奏でられていたのか知る術はないのですが、音楽が庶民生活においても、宮廷生活においても積極的に用いられていたことが壁画を通して分かります。メソポタミアに建国された新バビロニアのネブカドネザル治世時代(B.C.605-562)ではすでに大規模な管弦合奏団があったそうです。
紀元前500年頃:ギリシャの音楽
時は進んで紀元前1,000年頃、イオニア人やエオニア人、アカイア人、ドーリア人 などが合流してギリシャ人世界が成立します。
紀元前8世紀にはギリシャに伝わるオリュンポスの神々の伝承が結合してできた歴史物語として、ホメロスの「イリアス」「オデュッセイア」という二大叙事詩が成立しました。この叙事詩は読むものではな聴くものとされていたようで、音楽と詩が一体化されたものでした。これをキタラを伴奏にして歌うのが吟遊詩人だったのです。
当初、ギリシャはポリス(都市国家)の集合体でしかありませんでしたが、ペルシア戦争(B.C.492〜479)を契機に同一民族としての意識が広がっていきます。このギリシャ時代の文化は美術においても音楽においても極めて重要な位置付けにあります。これらが芸術の最初のクラシック(美の規範)として、後に形成されるヨーロッパ社会に浸透していくからです。
芸術全般としてはソクラテスやプラトン、アリストテレスら哲学者によってエトス論と芸術についてなど深い考察がなされています。
また、ピタゴラスが音程の理論を解明し、現代まで続くドレミファソラシドの音階の基礎を築きました。旋法としてもテトラコードを用いたギリシャ旋法が誕生しています。
その後ギリシャはアレクサンドロス大王によって統一され、アーカイック時代、クラシック時代に続いてヘレニズム時代が到来します。その後、ギリシャはイタリアやフランスやドイツへと別れていくかのローマの一大帝国に統治されることになるのですが、ローマ人たちはギリシャの美を重んじ、自分たちの文化に取り入れたため、ローマ帝国においてもギリシャの芸術がスタンダードになります。
現在の哲学がギリシャ哲学を基礎としているように、芸術においてもギリシャ時代の芸術がその後の文明においてもスタンダードとなっていき、数千年経った現在の芸術においても規範となっていくのです。
▼この時代を代表する音楽
- セイキロスの墓碑銘(紀元前2世紀頃から紀元後1世紀頃)
※完全な形で残っている世界最古の楽曲
4世紀頃:初期キリスト教音楽
313年、キリスト教がローマ帝国統治に利用できると考えたコンスタンティヌス1世(在位:306〜337年)の「ミラノの勅令」により、キリスト教がローマ公認となりました。
それまではキリスト教が広まることで皇帝の影響力が弱まること恐れたローマ帝国によって、キリスト教は迫害されていました。そのため、キリスト教徒たちは地下や洞窟の埋葬場所であるカタコンベなどに集まって集会を開いていました。
もちろん大規模な聖歌隊などは用意できませんから、集まったキリスト教徒たちは密かに聖歌を歌うことで信仰を誓いました。このときの聖歌が大きく成長し後の音楽の中核を担っていくことになるのです。
この初期の聖歌はユダヤ教時代の形を受け継いだ「詩篇唱」と「賛歌」という単旋律で自由なリズム、伴奏のない聖歌が用いられていました。この時代、ミラノの司教であるアンブロシウス(340年〜397年)によって典礼音楽がまとめられ、教会旋法のうちの4種が定められています。
その後、約1,000年に渡って音楽はこの聖歌とともに発展していくことになります。
6世紀頃 グレゴリオ聖歌
ゲルマン民族やフン族などヨーロッパ諸国の民族大移動のなかでローマ帝国が滅亡し、フランク王国が樹立します。フランク王国の国家運営には多くの聖職者が関わっており、ローマ教会と協力し合いながらヨーロッパ中に浸透していきます。
その間、グレゴリウス1世(590-604在位)の登場によって音楽の歴史は大きく進みます。彼はこれまでの聖歌を編纂し、キリスト教音楽の集大成として名高い「グレゴリオ聖歌」を確立しました。ここでキリスト教の典礼音楽の形式が確立されるとともに、教会音楽学校の開設や教会旋法の制定など、音楽の歴史が一気に動きます。
時代の後押しも大きくありました。当時はキリスト教の主要本山として「ローマ教会」「コンスタンティノープル教会」「アンティオキア教会」「エルサレム教会」「アレクサンドリア教会」が生まれました。ローマ教会は主導権を握るためにもグレゴリウス聖歌の発展に情熱を捧げます。
10世紀には初めてのミレニアムを迎えたことで人々は「終末」を強く意識し、キリスト教への帰依が進みます。巡礼ブームが起こり、ロマネスク様式およびゴシック様式の修道院の建設が相次ぎました。修道院は交通の要となり、経済の発展を促します。
本来キリスト教では偶像崇拝が禁止されていましたが、ローマ教会は聖書を読み書きできない人々のために”目で読む聖書”として宗教美術は発展します。こうして、建築と美術とともに、修道院の中でグレゴリオ聖歌が発展していくのです。
フランク王国はその後分裂し、イタリア、フランス、ドイツ、オーストリアなど現在のヨーロッパを代表する国々に独立していきます。クラシック音楽の先進国がイタリア、フランス、ドイツ、オートリアになったのはこの流れが大きいでしょう。
この時代にグレゴリオ聖歌とともに音楽の形式も大きく進化していきます。最も大きいのは単旋律の音楽から「ポリフォニー」への移行でしょう。これは各声部が独立性を持つ旋律としながら調和を保って1つの音楽となる音楽形式を指します。
まず9世紀に単旋律だった聖歌にもう1つの旋律が付与されるようになって「オルガヌム」と呼ばれる音楽が確立します。最初は並行進行による音楽でした。これが初期のポリフォニーとなります。
11世紀に入ると自由オルガヌムが発達し、並行進行に限らない重音が用いられるようになりました。12世紀にはパリのノートルダム大聖堂に属するレオニウスやペロティヌスらノートルダム楽派を中心に、オルガヌムとしてのグレゴリオ聖歌が完成されていくのです。
▼この時代を代表する音楽家
- レオニヌス(1150年〜1201年)
- ペロティヌス(1160年〜1230年)
こうして4世紀頃から約1,000年に渡ってグレゴリオ聖歌は音楽の主流を確立します。次回は中世の音楽にはいっていきましょう。
貴下の従順なる下僕 松崎より
ネクストッ! >> (2) 中世の音楽〜バロック音楽