美しいのは作品ではなく態度である

私の愛しいアップルパイへ

芸術において初心者が最も陥りやすい問題の1つは、美しいのは「作品」か?「態度」か?という問題でしょう。これは芸術を愛するものなら最初に行き着く疑問ではないでしょうか。

もちろん後者が、つまり「態度」こそが美しさの本質なわけですが、このあたりの詳しい解説を整理しておきましょう。事前知識なしに作品にのみ触れたときの第一印象を正として、作品を評価しようとする虚妄は根強いですから。

これは以下の記事でも少し触れたことですが、基礎的な部分かつ大変重要な問題でもありますので、より深く追求していきましょう。

美しいという言葉の定義は意義深いと同義である

コピー技術が進歩した今、本物の芸術はますます見極め難くなっている

そもそもこのような初歩的な問題が表面化した背景には、芸術を取り巻く様々な技術が高度化したことによっていつになく芸術が庶民的・大衆的になったという流れがあります。

作品のコピーはもちろんのこと、技術を機械的にコピーすることが容易となり、態度を伴わない作品を大量生産できるようになったのです。技術の進歩進化は止まらないどころか加速するばかりであり、見せかけの作品と本物の芸術がますます見極め難くなっています

▼これは以下で「ますます工芸化する芸術」として話したことと繋がります。

視覚芸術および音楽における芸術家と工芸家の違いと、ますます工芸化する音楽について

この問題の取っ掛かりとなるのが、美しさが宿るのは作品なのか?作者の態度なのか?という考察であると私は考えています。では、本題に入っていきましょう。

スティーブン・ピンカーの言う通り「音楽は聴覚的チーズケーキ」なのか?

1997年にスティーブン・ピンカーという心理学者が自らの著書「心の仕組み」において、「音楽は聴覚のチーズケーキである」と説いて物議を醸しました。

ここでいうチーズケーキとは、人間の進化に不要な人間の本能的な快感だけを追い求めたもののことであり、しばしば性的コンテンツ(=ポルノグラフィ)の比喩としても用いられます。

音楽=チーズケーキというのは、音楽が精巧に作られた人間の耳を、蝸牛を通して適度に刺激し、脳を心地よい快感に包むためだけに存在しているとする考え方です。絵画でいえば、目を楽しませるためだけに壁に描かれた静物画などがこれに当たるでしょう。

このまったく馬鹿げた考え方は、芸術作品の美しさが作品にのみ宿ると考える愚か者にとっては反論しがたい論説として受け入れざるを得ないのでしょう。しかし、作品の美しさが態度に宿ると考える賢明なる思考を持った我々にとってはこれが誤っていることについてなんら解説の必要性はないはずです。

芸術は見るより聴くよりまず「読む」

日本で芸術というとつい「感性」という便利な言葉を使って、単なる自らの経験を基にした第一印象に作品評価を帰結しようとしがちです。これは芸術というものが「主観的な感性で捉える説明し難いもの」という勘違いに基づいています。

以下の記事でも取り上げましたが、美術史家の木村泰司さんは日本で勘違いされやすいこの点を指摘し、いつも初めに美術は見るより読むものだと伝えていると言います。

芸術を深く理解するにはまず感性と主観を捨てる〜木村泰司さんに学ぶ西洋美術史〜

私は、いつも講演で「美術は見るものではなく読むもの」と伝えています。美術史を振り返っても、西洋美術は伝統的に知性と理性に訴えることを是としてきました。古代から信仰の対象でもあった西洋美術は、見るだけでなく「読む」という、ある一定のメッセージを伝えるための手段として発展してきたのです。つまり、それぞれの時代の政治、宗教、哲学、風習、価値観などが造形的に形になったものが美術品であり建築なのです。

世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」 p.4

美術も音楽も思想やイデオロギーとともに発展してきました。むしろ16世紀頃にそれらと工芸とを区別するために芸術と命名されたのです。だからこそ作品の背景や、さらには作者の態度を「読む」技術が必要不可欠なのです。

美しいのは作品ではなく態度であることを示す様々な事例

ここからは様々な作品や芸術論の引用を通して、美しさが作品ではなく態度に宿ることを解説していきます。

ゴンブリッチの美の物語

エルンスト・ゴンブリッチ氏の「美術の物語」は美と芸術について考える最良の入門書の1つです。本書の冒頭にはこんな指摘があります。

人は現実世界でみたいと思うものを、絵のなかでも見たいと思う。ごくあたりまえのことだ。だれでも自然の美を愛している。だから、それを絵に描き残してくれた画家たちに感謝する。

(中略)

しかし絵の主題として、かわいいもの、楽しいものばかりを求める気持ちは、躓きの石となりやすい。絵の主題に魅力がないと、つい反発を感じることにもなりかねないからだ。

(中略)

美術に興味をもち始めた人がぶつかる、もうひとつの難問がある。彼らは、見えるとおりに描くのが画家の仕事だと考え、その腕前を賞賛したがる。彼らがなにより好きなのは、「本物そっくり」の絵だ。

エルンスト・H・ゴンブリッチ「美術の物語」 序章

もちろんこれは絵画に限らず全ての表現形式にも当てはまるでしょう。

この記述によって気付かされるのは、作品を好む人の多くはその作品の歴史的な意義や作者の態度によってではなく、単に主題に対する好き嫌いだけで判断してしまっているということです。芸術作品の価値が、作品そのものに宿ると考えた場合にこのような誤解が起こりやすいのです。

ゴンブリッチ氏は続けて、ルーベンスの描く幼息子の肖像画とデューラーの描く年老いた母親の肖像画を比較してこう言います。

老年のやつれた姿をまざまざと描きだしたこの絵はショッキングで、つい目をそらしたくなる。それでも、最初の抵抗感さえ乗り越えれば、得るものはとても大きいはずだ。どこまでも真実に迫ろうとするデューラーの態度が、このデッサンを素晴らしい作品にしている。絵の美しさは、必ずしも描かれた対象の美しさにあるのではない。

エルンスト・H・ゴンブリッチ「美術の物語」 序章

ウンベルト・エーコの「美の歴史」

美術史家として名高いイタリアのウンベルト・エーコ氏はも「美の歴史」において、たびたびこの問題を取り扱っています。

醜い生き物や醜い物が存在するとしても、芸術はそれを美しく表現する力を有している。そして、このような模倣の美(あるいは少なくとも写実的忠実さ)が醜を受け入れられるものとする。このような観念の証言はアリストテレスからカントまで、充分にある。従って、われわれがこのような考察にとどまるなら、問題は簡単である。醜さは、自然においてわれわれに嫌悪感を抱かせるけれども、芸術において受け入れられるものとなり、快いものとさえなり、芸術は醜いものの醜さを「みごと」ー物質的意味でも道徳的意味でも理解されてーに表現してみせる。

ウンベルト・エーコ「美の歴史」 p.133

上記において、醜いものを美しいものに変えたのは何でしょうか。その最重要のものは醜いものの醜さを「みごと」に描き出さんとする芸術家の態度でしょう。

美しさの本質が態度であることを暴いたアンディ・ウォーホルのポップアート

近年の芸術運動のなかでも「美しいのは作品か?態度か?」をテーマとして、最も端的に分かりやすく(世間を茶化しながらも)回答を示した芸術家はアンディ・ウォーホルのポップアートではないでしょうか?

なかでもキャンベルのスープ缶を題材とした以下の作品は、芸術が作品ではなく態度に宿ることを大衆に示した実に痛快な作品でした。

キャンベルのスープ缶 – Wikipedia

芸術作品とは到底認められないような、店頭に並んでいる単純なインダストリアル・デザインに過ぎないキャンベルのスープ缶も、アンディ・ウォーホルを通せば芸術作品になり得ることを大衆から炙り出す遊び心に満ちた挑戦的な作品です。

これは店頭に並んでいる缶詰のデザインのコピーに過ぎないにも関わらず、同時にウォーホルの茶目っ気あふれる芸術作品でもあるのです。これはインダストル・デザインとファイン・アートという弁証法的矛盾が"重なった"革新的な作品なのです。

店頭に数え切れないほど並ぶ缶詰と、この絵画との違いはなんでしょうか?それは作者の態度だけです。

不出来なシステムが芸術の価値を不当に貶めることを暴いたデヴィッド・ボウイのアルバムジャケット

アンディ・ウォーホルからの影響を公言しているデヴィッド・ボウイもアルバムジャケットを通してこの問題に切り込みました。

デヴィッド・ボウイは一通りの成功を収めた後1988年に次なるチャレンジとして新しいバンド「ティン・マシーン」を結成します。

このティン・マシーンの2ndアルバム「TIN MACHINE II」で、デヴィッド・ボウイは音楽をとりまくビジネスシーンおよびマーケットを試すようにアルバムジャケットに男性器があらわになっている男性の裸体彫刻を起用します。これは紀元前500頃に神への捧げものとして作られたギリシャ美術の「クーロス像」であり、伝統的なコントラポストのポーズをとった彫刻でした。美術史で考えれば、現代にもつながる美の規範であり美術史の教科書を開けば必ず最初に掲載されているものです。

しかし、当時、衣装にメンズドレスをいち早く採用したり、バイセクシャルであることを公言するなどセックス・シンボルとして注目されていたのがデヴィッド・ボウイでした。このことから、アルバムは性的表現が過ぎることを理由に発売に規制がかかり、男性器部分にモザイクが入った状態でしか流通できませんでした。

学校の教科書などでは当たり前のように(当然モザイクなどなしで)掲載されている美の規範たる伝統的なクーロス像の彫刻が、デヴィッド・ボウイを通すとまったく同じものでも関わらず卑猥で猥褻な表現だと認定されたのです。この事件では一般的な鑑者が(意識的であるにせよ無意識的であるにせよ)芸術家の態度を評価していることを半ば強制的に露呈させました。

デヴィッド・ボウイは後にこの事件を振り返ったインタビューで「またメディアに”去勢された”」と皮肉っぽく語っています。ちなみに、この去勢事件の影響があったのかなかったのか、このアルバムはデヴィッド・ボウイ史上最も商業的に失敗したアルバムの1つとなりました。

ジョン・ケージによる無音の音楽「4分33秒」

同じく音楽という表現形式においてこの問題に明確な回答を突きつけた先駆者はジョン・ケージでしょう。彼の最も有名な曲の1つである「4分33秒」は無音の音楽として広く知られています。

あまりにも有名なこの楽曲は、第3楽章に渡るそのすべてにおいて休止を意味する「tacet」が指示されています。完全に無音なのです。

通例として主にピアノで演奏されることになっていますが、実際にはプレイヤーは一音の演奏もしないので、楽器構成はなんでも構いません。

この楽曲というのはちょっとした冗談として扱われがちですが、ジョン・ケージの態度に注目すれば真っ当すぎる芸術作品であることが分かります。

「4分33秒」は「無音の音楽」などとのたまって「鉄の木」のような矛盾を突いた音楽なのではありません。そうではなく、音楽がなくとも私たちの身の回りは音楽的な音で溢れているのだと気づかせる音楽なのです。

私たちはもうほとんど忘れかけていますが、音楽を奏でずとも私たちには自然が奏でる無限の音楽があるのであり、「4分33秒」はそういった今の私たちが忘れかけている自然の音楽にもう一度耳をすまそうと訴える音楽作品なのです。

これは後にブライアン・イーノがその意志を引き継いで確立した「アンビエント・ミュージック」の先駆けであり、このような態度を理解すれば「4分33秒」がまっとうな芸術作品あると理解できます。

AIによる自動作曲と自らの芸術性を融合して芸術的自動作曲を確立したブライアン・イーノ

ジョン・ケージに影響を受け、デヴィッド・ボウイとの共作でも知られるブライアン・イーノは音楽を通して自然を模造する「アンビエント・ミュージック」を確立しました。

ブライアン・イーノはWindows 95の起動音を作曲するなど、かねてよりテクノロジーと芸術との融合に前向きに取り組んできたパイオニアです。

AIによる自動作曲というと、芸術性のかけた職人の工芸品の域を出ないとネガティブに捉えてしまいがちですが、ブライアン・イーノは自らの芸術性とAIの自動作曲を見事に融合して止揚しました。

ブライアン・イーノは元々芸術作品に偶然性を持ち込んで自然界を表してきましたが、AIによる情報処理能力を使ってそれを次の段階に進めました。例えば、その日の天気や気温に応じて音がリアルタイムに変化していく音楽作品を作ったのです。

かくしてブライアン・イーノは変化し続ける不変の存在たる自然をAIによる自動作曲の技術を用いて表したのです。これはブライアン・イーノの芸術を追及せんとする態度が生んだ美しい作品といえるでしょう。

▼ブライアン・イーノの最新作「Reflection」は以下の記事でも紹介していますので、ご参考にどうぞ。

いま最も美しい作業用BGMアプリ!ブライアン・イーノが新譜Reflectionをアプリでリリース!

「綺麗」だけでは語れない19世紀フランスの印象派

日本では単に「綺麗な絵」と誤解して評価されがちな印象派の画家たちですが、これは昔から風俗画や風景画に馴染みのある日本の文化に加えて、主観と感性だけで作品を評価しがちな日本人らしい誤解でもあります。

印象派というのは美術史上の大きな事件でした。印象派の画家たちがいかに命がけで美術史に挑んだか、いかにしてそれが受け入れられたのかの背景を知れば、印象派の作品をただの「綺麗な絵」としては観られなくなります。

印象派は17世紀から200年にかけてフランスで美の規範を築いた「王立絵画・彫刻アカデミー」および「官展サロン」に対するアンチテーゼでした。

イタリアのルネサンスに影響され、画家や彫刻家の地位向上を目指してニコラ・プッサンの作品を規範として創立されたのがアカデミーでした。

主題については「歴史画」「肖像画」「風俗画」「風景画」「静物画」の順に厳格な格付けがされており、さらには画家が自分で絵を売ることは”卑しい行為”とされていた時代です。

そんななかで印象派の画家たちは眼前に広がる世界の第一印象を捉えることに意義を見出したはみ出し者でした。主題は必然的に「風俗画」「風景画」「静物画」といった格下の絵が中心になりました。

そして1874年4月、モネやピサロを中心とした印象派の画家たちは自らの力で個展を開きます。当時、自ら絵を売ることが卑しいとされていた時代で、アカデミーとサロンの庇護なしには食っていけないとされていた時代にです。

これを機に印象派の画家たちは少しずつ少しずつ市民権を得ていき、ついには現代の古典になっていくのです。

▼印象派の革新性については以下でも扱っていますので、ご参考にどうぞ。

日本で最も勘違いされている印象派の本当の魅力〜木村泰司氏の「印象派という革命」を読んで〜

岡本太郎が説いた「今日の芸術」

岡本太郎氏は現代の主観的な好き嫌いだけで作品が論じられる安易な風潮に「今日の芸術」のなかで釘を刺しました。

今日の芸術は、

うまくあってはいけない。

きれいであってはならない。

ここちよくあってはならない。

と、私は宣言します。

岡本太郎「今日の芸術」 P.98

おそらく岡本太郎氏の絵画自体が、岡本太郎氏の態度を知らなければただダイナミックな絵としてだけ捉えられて終わってしまうため、自身の哲学や精神性、価値観が作品を通してイマイチ伝わっていない「暖簾に腕押し感」に日々歯がゆさを感じていたのでしょう。

岡本太郎氏は作者の哲学や精神性、知性が凝縮された作品を「芸術」、そうではなく見かけの優美さだけを追求した作品を「芸ごと」と名付け、明確に区別しました。

同じく岡本太郎の「今日の芸術」からの一節を引用しましょう。

それは一言でいってしまえば、失われた人間の全体性を奪回しようという情熱の噴出といっていいでしょう。現代の人間の不幸、空虚、疎外、すべてのマイナスが、このポイントにおいて逆にエネルギーとなってふきだすのです。力、才能の問題ではない。たとえ非力でも、その瞬間に非力のままで、全体性をあらわす感動、その表現。それによって、見るものに生きがいを触発させるのです。

岡本太郎「今日の芸術

このような態度で岡本太郎氏が芸術に向き合っていたことを考えると、彼の「芸術は爆発だ」という有名なセリフも一味違って聞こえるのではないでしょうか。

草間彌生の「かぼちゃ」はなぜ美しいのか?

日本人の画家で国内だけでなく世界的に知られる草間彌生は、宇宙を観照する自らの態度を強烈に表現する画家です。

10代の頃の初期作品はどちらかというと個人の内面にある苦悩と葛藤を赤裸々に描いた作品が多いですが、ニューヨークに渡って中期の作品はそのアプローチが開花していく様子が見て取れます。

ニューヨーク時代には当時アメリカで開花しつつあった抽象画をはじめとして、ハプニングやインスタレーションといった独特な手法を使って、世界から分離された個人としてではなく、世界の一部としての個人を表現するようになります。

そして、世界における異物であり、しかし同時に明らかに世界の一部分でもある「シミ」としての自分を表現することが、件の有名なかぼちゃのアートに結実していくのです。この結論に至るまで人生を通して徹底的かつ弁証法的に苦悩し続けた軌跡があるからこそ、彼女の作品には震わされるのです。

が、日本の大多数にはただの派手で奇抜なおばちゃんという程度の印象で伝わっているのは嘆かわしいことです。

作品にばかり焦点が当たりがちな近代的な表現「映画」と「漫画」「アニメ」

20世紀以降に発展した近代的な表現形式である「映画」と「漫画」「アニメ」は、作品の表面的な面白さだけにスポットライトが当たりがちな特殊な状況にあるので最後に言及しておきましょう。

これらは歴史が浅いだけでなく現代の「大量生産」と「商業主義」の過剰な熱にあてられて、さらには昨日の創造を今日には古いものにしたがる「マスメディア」に歪曲されて、どうしても芸術としての味わい深さが軽視される傾向にあると言わざるを得ません。

無論、1950年代にフランスに現れたフェデリコ・フェリーニや、ジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーらが中心になって興した「ヌーヴェルヴァーグ」(「新しい波」の意)のように芸術運動として映画を扱った者もいましたが、現在の様子を観ればそのような動きはごく少数派だといえるでしょう。

また、映画と漫画・アニメに関しては文学と同じように物語が介在するため、ただ好奇心がくすぐられるだけの娯楽性と、安易なセックスアピールにスポットライトがあたった作品も珍しくありません。スティーブン・ピンカーに「チーズケーキ」と揶揄されてもなんら反論できないところまできています。

低レベルな好奇心のコントロールは、ただ2つの知識の隙間を徐々に埋めていくことで、人の知的好奇心を擬似的に満たそうとする作品と感情との馴れ合いに過ぎません。(例えば、ある夜にAさんは死んだ。犯人はこの中にいる…!?という風に)。

多くの人がオススメする面白い作品が、単に「最初から最後まで好奇心をくすぐられるだけだった」なんてことも多くあるのが残念なところです。これらが歴史の深まりとともに芸術的な視点が作者にも鑑者にも広まることを待望するばかりです。

視覚芸術および音楽における芸術家と工芸家の違いと、ますます工芸化する音楽について

作品ではなく態度を通して芸術を眺めればその偉大さを再発見できる

今回は様々な実例を通して、芸術の美しさが宿るのは作品ではなく態度であることを見てきました。これらの解説は、例えばある音楽が「ポップスか?ロックか?」を判断するときなどに有効に機能するでしょう。

芸術作品を目にしたとき、まるでFacebookの友人の投稿に「いいね」をつける時のように主観で安易に判断してしまうケースが多くあります。一度作者の物の見方と作者の態度について深く思索を巡らせば、芸術という偉大な仕事を再発見できますし、芸術をより深く美しく楽しむ入り口に立つことができます。

美とは常に相対的なものです。作品の背景にある歴史と作者の態度を通して相対的な美を複数の視点から観察する目を持つとき、芸術が主観的な先入観とはまったく異なる、現実的で立体的なものとして浮かび上がってくるでしょう。

願わくば、ただ作品だけに触れて見せかけの芸術と本物の芸術を見誤るような事態が減ることを。

貴下の従順なる下僕 松崎より

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システム系の専門学校を卒業後、システム屋として6年半の会社員生活を経て独立。ブログ「jMatsuzaki」を通して、小学生のころからの夢であった音楽家へ至るまでの全プロセスを公開することで、のっぴきならない現実を乗り越えて、諦めきれない夢に向かう生き方を伝えている。