芸術的な感性を発揮するための1つの前提条件

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photo credit: Le Jour ni l’Heure 7496 : Auguste Rodin, 1840-1917, Le Penseur, 1903, dét., villa des Brillants, demeure du sculpteur à Meudon, Hauts-de-Seine, dimanche 12 août 2012, 16:57:39 via photopin (license)

私の愛しいアップルパイへ

先日は芸術の模造についてお話しました。今日はその前段の話として、そもそも芸術的な感性を発揮するために必要な条件。つまり、芸術的な作品を創造するか、それらを鑑賞するときに必要となる条件についてご説明しましょう。

これは実にシンプルな1つの条件ですが、まことに誤解されやすく、実践も難しいものですから、興味深いことです。

芸術的な感性を発揮するための1つの前提条件

結論から言いましょう。芸術的な作品を創造するか、それらを鑑賞するときに必要となる条件とはこれです。

「自分が生と死の問題から解放されていること」

鑑賞者としての心構え

まずは誰もが分かりやすいように鑑賞者としての視点で考えてみましょう。

私がつい最近この前提事項を体感したときの話をします。

その日、私は秩父の山奥の神社へ旅行に行っていました。その神社には別宮として数キロ離れた山奥の場所にも建造物があるようでした。

別宮へと向かった私が目にしたのは、山道の左右にまっすぐとそそり立った木々でした。そして、その木々の間から差し込む日光と、それが照らしだす山々の自然!私はその自然に、人間の一生などほんの僅かなものだと感じるほど途方もない時間の経過を感じ、底の知れない自然の偉大さと美を感じ取りました。

そこからほんの数十メートル進んだところにまずあったのは、クマ注意の大きな看板と、細かな注意書きでした。道を挟んで反対側には古ぼけた登山届けの入れ物と緊急時の連絡先。山に入るために必要となる装備の説明。その下には過去にこの山で起きた数々の事故の記録と事故発生場所とその種別。

その瞬間、自然は私の命を脅かす脅威へと代わりました。同時に、先ほど私の胸を打った自然は消え去ってしまったのです。

これは日常のあらゆる場面で起こりえることです。空腹時に(厳密には空腹にとらわれている精神状態のときに)芸術を鑑賞できないのは、餓死という生死の問題にとらわれているからです。凍え死にしそうなときに雪の白さと純潔さを紐づけて、芸術的だと考えることはできないでしょう。普段は光を反射してあんなにも美しくゆらめく海も、溺死しそうなときにはとてもそうは思えないでしょう。

芸術の仕事は、対象が本質的に持っている優越性や純粋性を観照して表現するものだと言えます。ただし、その能力は個体としての私たち自身が生死の問題から解放されているときにだけ許されるものなのです。

創造者としての心構え

次に創り手の側の話をしましょう。

原則は同じです。生死の問題から解放されているときにのみ、芸術的な創造が可能だということです。

もちろん行為としての作品創造はいつでもできるでしょうが、”芸術的な”創造にはならないということです。ですから、そんなときにまずやるべきは創造ではなく、自らを生死の問題から解放することです。

空腹や睡眠不足、性衝動はもちろんですが、他にも間接的なこととして金銭が不足している状態のときでも該当するでしょう。ほとんどの人にとって金銭は生死の問題に直結します。不足状態なら特に。こういった状態で芸術的な創造が難しい理由は、自分という個体が生死の問題にとらわれていることによって、対象を正しく観照することが難しくなるからです。

ここで勘違いしていただきたくないのは、生死の問題から解放されているというのは、精神的にという意味です。

どんなに空腹でも精神的な意味で生死の問題から解放されていれば創造もまた可能です。戦争画が成り立つのは、描き手が戦争の中にあっても生死の問題から解放されているからです。

むしろ眼前に生死があってもなお、自らを生死の問題から遠ざけて芸術という仕事に没頭できることは、芸術家だけに許された特別な才能の発揮だといえるでしょう。

生死を挑発する作品は芸術性の欠けた作品である

創造者としては、生死を超越して対象の本質を露わにすること。鑑賞者としては、生死を超越して対象の本質を観照すること。

これが芸術というものの一般的な運動だとすれば、作品に対しても1つの前提が生まれます。

それは「生死を挑発する作品は芸術性の欠けた作品である」と考えられることです。

個体としての生死を超越することが条件として求められる芸術において、その作品が生死を挑発するようなものであれば、これは紛い物といってもいいでしょう。

食品や料理が芸術として成立することが難しいのは、それらが食という生死に直結した題材を扱っているからです。触覚や匂いによる芸術作品がないのも同じ理由です。また、性衝動を挑発するような彫刻や演劇、文学や音楽もまた、芸術的とはいえないでしょう。

無論これは先ほど言いましたとおり、厳密には表現そのものが生死を扱っているかどうかではなく、それに触れたものが自らの生死の問題に陥ってもはや芸術的ではいられなくなってしまうかの問題です。

生死の問題から遠ざかりやすい状況や環境を作れば、感性を発揮しやすくなる

これらのことから、個体としての生死の問題から遠ざかりやすい状況や環境を作れば、誰でも芸術的な感性を発揮しやすくなるといえるでしょう。

これは創り手としては創造性をコントロールする鍵になるはずです。少なくとも、「とてもなにかを創ろうとは思えない」などという状況から脱する手助けになるでしょう。

▼このあたりの議論でより高度で完成されたものを望むなら、やはりショーペンハウアーの美学をオススメします。芸術については三巻で触れられています。これはまったく最高の1冊です。

貴下の従順なる下僕 松崎より

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システム系の専門学校を卒業後、システム屋として6年半の会社員生活を経て独立。ブログ「jMatsuzaki」を通して、小学生のころからの夢であった音楽家へ至るまでの全プロセスを公開することで、のっぴきならない現実を乗り越えて、諦めきれない夢に向かう生き方を伝えている。