私の愛しいアップルパイへ
「なぜミュージカルや映画や劇などの物語作品に音楽が必要なのか?」「歌にのせてセリフを言う意味が分からない」「BGMが邪魔」などといった疑問や不満を持ったことはあるでしょうか?自分が合理的だと信じているほどこの罠に陥りやすい気がします。
何を隠そう私自身も映画などに挿入される音楽の惰性的とも思える使い方に不快感を覚えていた人間の1人でした。そしてドグマ95(ラース・フォン・トリアー監督らを筆頭に提唱された、過度な飾り気を排除することを重視した映画運動)のような不要な音を使わないようにする”純潔の誓い”を歓迎していました。
しかし、物語における音楽の役割をよく考えれば、物語において音楽は時に必要不可欠なものになるのだと今では腑に落ちています。
物語における音楽の意味について今日は整理してみましょう。
言語による表現形式の欠陥と限界
まずもって指摘しておきたいのは文学や漫画といった言語を用いた表現の限界についてです。
言葉を使えば人間の理性が作り出してきた様々な概念を活用できるため、かなり多種多様で包括的な表現が可能です。
しかし、最大の欠点となるのが心理描写の不自然さでしょう。
例えば、ある人物の内面を言葉で表現するためには「そのとき彼は嫉妬した」とか「彼は憤慨した」とか「彼はひどく悲しんだ」といった具合になります。
しかし、思い返してみれば人間の内面の動きというのはそんなふうに綺麗に言語化できるものは1つとしてありません。もっと混沌としていて言語化しがたいものが渦巻いているはずです。
このような繊細なる心の動きを無理に言語化し、既存の概念にあてはめようとすれば、モザイク画のように引いて見れば似ているが、近づいてみるとまったくの別物であるといったものができあがってしまいます。
劇や映画やミュージカルのように文字による表現が著しく制限される表現形式においては、この問題はさらに大きくなります。
芸術においてこのような状況は不本意であり、芸術家にとっては歯がゆいものとなるでしょう。
なぜミュージカルや映画や劇などの物語作品に音楽が必要なのか?
では、なぜミュージカルや映画や劇などの物語作品に音楽が必要なのか?
この疑問を解決するための糸口を最初に私に提示してくれたのは20世紀前半にドイツで活躍した劇作家であるベルトルト・ブレヒトが自身の代表作である「三文オペラ」についての演出家へ向けた脚注を読んだときでした。
ブレヒトはこう言います。
普通の会話、たかめられた会話、歌唱という三つの平面は、いつもはっきり分離されなければならない。たかめられた会話が普通の会話のたかまりであったり、歌が高められた会話のたかまりであったりしては決していけないのだ。
三文オペラ 「三文オペラ」のための註
ブレヒトは普通の会話と高められた会話と音楽の3つを明確に分けよと言います。では、音楽と高められた会話とでは何が違うのでしょうか?音楽の役割とは一体なんなのでしょうか?
音楽が何を表しているかについては以下の記事でも言及したので読んでいただきたいですが、結論だけ簡潔にまとめると人間の意志から生まれる情熱、信念、衝動、葛藤、恐怖等々です。もっと広く捉えれば人間の内面の心理描写ともいえます。
19世紀に活躍したドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアーはこう表現しています。
言葉とは理性の言語であり、音楽とは感情と情熱の言語だと言ってよいものなのである。
意志と表象としての世界 第五十二説 音楽について。
続けて
プラトンは音楽を説明して、「魂の感動を模倣するところの旋律の運動」(『法律』第七巻)と述べているし、またアリストテレスも、「韻律(リズム)と旋律(メロディー)は音であるにすぎないのに、どうして心の状態に似ているのであろうか」(『問題集』第十九巻)と言っている。
意志と表象としての世界 第五十二説 音楽について。
なぜ音楽がかようにも混沌としている人間の意志を言語以上に表現できるのかについては今後優れた哲学者と科学者が解明してくれるでしょうが、音楽に慣れ親しんだ私たちは直感的にそれを分かっているはずです。
音楽は論理や根拠にとらわれない人間の自由かつ無限の意志を模像し、表現するために、人間が長年かけて発達させてきた言語なのです。
特に劇やミュージカルにおいて意志や感情の描写を会話やたかぶった会話にのせようとすればまったく不自然で無骨で野暮なものができあがってしまいます。ナレーションでも同様ですし、まともな表現者ならそんなことをしようとは思わないでしょう。
物語において音楽とは、人間の心理描写をするために言葉以上に優れた表現手段です。絵と音の表現が中心で、そのうえ文字の表現が著しく制限される劇や映画やミュージカルにおいては、音楽を活用しない手はないという訳です。
ですから、ミュージカルや映画や劇などの物語作品に音楽を用いようとするのは、ブレヒトの言う通り普通の会話と高められた会話と音楽の三つの平面がはっきり分離されている限り、大変理にかなった選択だということです。
貴下の従順なる下僕 松崎より