私の愛しいアップルパイへ
音楽に携わるものであれば、美しいとはなにか?という問題について考えずにいられないものです。作品を作りながら美しいという概念を体感したり、美術書や哲学書を通して美しいという概念について綴った先人の知恵に触れたり。
私の姉は油絵を専門とした美大生だったので、幸いなことに家には美術書がいくつも転がっていました。そのなかでも美しいの定義について特に頭に粘りついているのは「美しいとは、意義深いということである」という一節でした。
なんてタイトルの本だったかメモしなかったことを心底後悔していますが、これほど美しいという言葉を簡潔に言い換えた一節はその後お目にかかったことがありません。
なぜ綺麗なものが美しいとはいえないのか?
よくある勘違いの1つは綺麗と美しいの混同です。これは非常に初歩的なことですが、さして美しいものに興味のない人は安易にこの混同にはまってしまうものです。
例えば、綺麗なものが美しいと思っている典型的な例は、本物そっくりなら美しいという勘違いでしょう。写真のようにそっくり描けているものがすごい!美しい!というわけです。エルンスト・ゴンブリッチ氏の「美術の物語」にもそんな指摘があります。
美術に興味をもち始めた人がぶつかる、もうひとつの難問がある。彼らは、見えるとおりに描くのが画家の仕事だと考え、その腕前を賞賛したがる。彼らがなにより好きなのは、「本物そっくり」の絵だ。
美術の物語 序章
もちろん本物そっくりだから価値がないわけではありませんが、実際には本物そっくりでないもののなかにも無数に美しいものがあります。もっといえば、美しいもののほとんどは本物そっくりではないのです。特に”本物がない”音楽はすべて本物そっくりに当てはまらないことになります。
綺麗の定義を広げて、綺麗というものを端的に言い換えれば均衡と調和といえるでしょう。まっすぐな線、左右対称、黄金比、遠近法、音楽なら安定した音高、幾何学的な旋律同士の掛け合いや複雑な楽式、完璧な協和音、調和した和声などは均衡と調和の象徴であり、綺麗なものを形作る要素といえます。
しかし、このような均衡と調和の保たれた綺麗なものは、ひどく凡庸で退屈なものでありふれています。綺麗だからといってとても美しいとはいえないのです。逆もまた然りで、ひん曲がった線や安定しない音高のなかにとびきりの美しさが宿ることも珍しくありません。
人間の内蔵を見て醜いと感じる人もいれば、美しいと感じる人もいます。犬を見て美しいと感じる人もいれば、うまそうだと感じる人もいるでしょう。
作者が作品のなかで均衡と調和を破壊するのであれば、それだけの理由があったということです。
美しさは観者の価値観とのつながりである
例えば、よく切れるハサミが美しいといえるかどうかについて考えてみましょう。
ハサミは現代では凡庸でありふれた道具に過ぎず、ハサミを使うときにいちいち美しいと感じながら使っている人はほとんどいないでしょう。詳細は後述しますが、実際、身近にあるありふれた道具を美しいと感じるのは困難なことです。
ここで「美しい」の定義を思い出してみます。「美しいとは、意義深いということである」というものです。
例えば、熱加工や研磨を通して鋼の持つ特性をみごとにハサミという形に凝縮したとき、そこに美しさが宿るかもしれません。特に、科学がいまほど進歩しておらず、世界がいまよりも予測しがたい混沌に囲まれていた世界であれば、この発明は希望であり、その希望は十分に美の対象になったでしょう。
もしくは、こんなものの見かたもできます。現代でも通じるハサミの美しさは、ハサミが「ものを切る」という実に明確かつ具体的な目的を持って生まれてくることです。客観的な生きる目的を持たず、自分自身でその意味を措定する以外の道を持たない日々迷いながら生きている人間にとって、このありようは実に意義深いものだといえるでしょう。
そこには、ライオンに向かうサムソンの迷いのない決意や、神の命令で息子のイサクを殺すことも厭わなかったアブラハムの一途な信仰にも似た意義深さを見出すことができます。ハサミがこういった人間の深い価値観とつながり、意義深さを感じ取ったときに、そのハサミが美しいと感じるでしょう。
つまり、美しいという概念は作品だけでなく、観者の価値観とのつながりのなかで醸成されるということです。
美は作品に宿るのか?態度に宿るのか?
美しいものの定義についてもう1つ勘違いしやすいのは、美は作品に宿るのか、もしくはその関係者の態度に宿るのか?という問題です。
美しいという概念について無頓着だと、美は作品に宿ると盲目的に信じ、その背景や環境、そして作者の態度などはノイズだと思って軽視しがちになります。しかし、時代背景や作者の態度は作品そのものと同じくらい(というよりもとても引き離すことができないほど)重要です。
同じく「美術の物語」で、ドイツの画家アルブレヒト・デューラーについて語ったこんな一節があります。
初老のやつれた姿をまざまざと描きだしたこの絵はショッキングで、つい目をそらしたくなる。それでも、最初の抵抗感さえ乗り越えれば、得るものはとても大きいはずだ。どこまでも真実に迫ろうとするデューラーの態度が、このデッサンをすばらしい作品にしている。絵の美しさはかならずしも描かれた対象の美しさにあるのではない。
美術の物語 序章
例えば、岡本太郎氏の絵をはじめて見た人がその絵の意義深さを察するのは大変な困難だといえます。いえ、おそらく不可能でしょう。
彼自身の生き様、彼のいう爆発の概念、そしてフォービズムを進化させたような原始的で力強いモチーフと配色。それらすべてが絡み合って美しいのです。単なる原色同士のコントラストや、単なる「爆発」というキャッチーな形容を超えた、それぞれの要素の総和よりももっと高いレベルの説明しがたい意義深さがあるからこそ、彼の作品は人の心をとらえて離さないのです。
▼これに関しては以下でも詳しく論じておりますので、ご興味あればご一読ください。
絶対的な美は存在するのか?
美しいという言葉の定義について考えるときに陥りやすいのは、絶対的な美という神話への憧れです。
美しいというものは意義深いものであり、その概念が時代背景の作者の態度、そして観者の価値観に影響されるのであれば、絶対的な美というものは存在し得ないのでしょうか。そうです。絶対的な美はないということです。
美は歴史と同じように個人の価値観やその時代の人々の価値観を反映しながら、相対的に、一時的に、個人的に定義されていくものです。絶対的な美は存在せず、常に流動的なのです。
ロックというものが第二次世界大戦直後の親世代への反抗を根幹とする反体制という時代背景なしに語ることができないように、時代背景や作者の態度、観者たちの価値観と相互に関連しあいながら変動していきます。美しいということについて考えるときには、”最も美しい”という概念を捨て、絶対的な美という神話を壊さなければならないでしょう。
これこそウンベルト・エーコ氏が「美の歴史」や「醜の歴史」を通じて行った偉大な仕事でした。
本書は相対主義のそしりを受けるかもしれない。美と見なされるものはさまざまな時代や文化によって異なるとわれわれは主張したがっているのだ、と。じつはこれこそ、われわれの言いたいことなのだ。ソクラテス以前の哲学者、コロポーンのクセノファネスの名高い一節にこうある。「しかし、もし雄牛や獅子に手があったら、あるいは人間と同じように絵が描けるとして、これらの動物が神々の姿を描くとしたら、馬は神を馬に似せて、雄牛は神を雄牛として描き、神々の身体はその描いた動物と同じような身体からなることだろう。」(クレメンス『スロマータ』 V、110)
美の歴史 序論
芸術家はなにをしているのか?
芸術が個人の意義深いという感覚を呼び起こす活動だとすれば、芸術家という存在はなぜ必要なのでしょうか。観者の心持ちひとつで雑草が美しくもなれば、星も美しくもなり、動物の肉体も美しくのなり、果ては便器ですら美しくなるのであれば、芸術家は不要ではありませんか。彼らはいったいなにをしているのでしょう?
彼らは彼らの生き様や自らの価値観、そして作品自体を通して、自らが意義深いと感じている対象の本質的な特性、独自の優越性や純粋性を際立たせて、それらの意義深さを認識させやすくする職人なのです。
彼らのような芸術家が必要なのは、人間というものが(すでに私たちが私たち自身についてよく理解しているように)、見てると思っているものを見ておらず、感じていると思っているものを感じておらず、日常的にあらゆるものを見落としているからです。
例えば1952年にジョン・ケージ氏が発表した4分33秒という音楽史に残る有名な作品があります。これは、4分33秒間の「沈黙」を演奏する作品であり、3楽章に渡るすべてでなにも演奏しない無音の作品です。
これがなぜ美しいかというと、無音の音楽という遊び心などでは決してありません。複雑化する音楽に対するアンチテーゼであると同時に、我々がいかに日常的に耳にしている音を見落としているかということを突きつけてくれるからです。無音(という勘違い)のなかで、人々の息遣いや空気の流れ、鳥のさえずりなど、普段は取るに足らないと決めつけている音(しかしずっと耳に届いているはずの音)をもう一度再発見し、自然が奏でる偉大な音楽として再定義したのです。つまり4分33秒は無音ではなく音のある作品なのです。
もう1つ、私は昔から静物画というものが嫌いでした。変化に乏しく、面白みがなくて、画家の練習だとか、安息とかユートピアなどの安っぽくて野暮ったい主張以上のなにかを見いだせなかったからです。実際のところ西洋美術では歴史的に静物画の価値は極めて低いものとされてきました。
ある日、スペイン・マドリードにあるプラド美術館のコレクションが上野に来日したときに観にいったのですが、ここで展示されていたルイス・メレンデスの静物画に心を打たれました。
18世紀のスペインに生きたルイス・メレンデスは、対象をグロテスクなほど克明に、正確に、緻密に描くことで知られる画家です。私がそのときに再発見したのは、メロンや鮭、洋梨など日常的にありふれたものが、どれをとっても皺の1本1本にいたるまで1つとして同じもののない妥協なき創造の結果であるということでした。
ものの見かたが一変する気持ちでした。例えば、私が普段は取るに足らないと切り捨てていた石っころのどれを比べても、すべてが唯一無二の存在であり、グロテスクなまでに執拗に細部まで偏執狂的に作り込まれているのです。このような造物主の神秘的な完璧主義に気づかされ、おそらくはメレンデスと同じように造物主の仕事に畏敬の念を抱いたのです。これはただ「石をよく見ろ」などと言われても決してたどり着けない発見であり、絵画が言葉以上に私に影響を与えた瞬間でした。
芸術家とは、いうなれば我々が日常的に見落としているもののなかに隠れている意義深いなにかを発掘する専門家です。これがいわゆる感受性が豊かってことでしょう。
彼らは、言葉では説明しがたいなにかについて視覚か聴覚に訴える作品を作りだし、ときに言葉や態度でもって補足しているのです。そうして、多くの人が見落としている意義深いなにかを、自らのものの見かたを通して再発見させようとしているのです。
貴下の従順なる下僕 松崎より