音楽が模造しているのはなにか?

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音楽に携わるものにとって「音楽が模造しているものはなにか?」という問いは実に本質的な問題です。他の表現形式と比較しても、音楽はある特殊な問題を抱えています。

芸術は表現であり、表現であるなら表現する対象が存在するものです。造園芸術なら物質ないし植物そのものを、風景画なら風景を、戯曲なら人間の行為を、というように。

しかし、音楽だけは唯一、表現の具体的な対象が「存在しない」芸術なのです。これは真に興味深いことであり、大いなる深淵です。

芸術の目的は模造である

まず前提として、芸術とは模造であるという点について触れておきましょう。

芸術の意義深い目的というのは、表現する対象が蔵している本質的な特性、独自の優越性や純粋性を際立たせて、そういったものを認識させやすくする点にあるといえるでしょう。

風景が美しいのは、その風景が蔵している色鮮やかさだとか、細部の繊細さだとか、その風景が作られるまでの途方も無い時間の経過だとか、植物同士の葛藤の跡だとかにあるといえるでしょう。

そして風景画が美しいのは、そういった風景の本質に宿る特性、優越性、純粋性を際立たせるから美しいのです。

名作と呼ばれる彫刻の多くが若い裸体なのは、人間の肉体の優美さが最も際立つ瞬間をとらえたものだからです。

普通の人なら見過ごしてしまうような、その対象の本質を見事にとらえて際立たせ、普通の人でも鑑賞できるようにすること。これが芸術家の主たる仕事といえるでしょう。

そういった意味で、芸術は模造であるということになります。

音楽には具体的に存在している対象がない

風景画の対象が物質や植物や動物や人間の織りなす風景だとするならば、音楽の対象はなんでしょうか。

本題に入る前にこの問題に関する2つの主要な誤謬を否定しておこうと思います。

第一に、詩を持つ音楽は、詩によって具体的な対象が明確になっているという誤謬です。これはハンスリックの音楽美論をひくまでもないでしょう。

この場合、具体的な対象を表しているのは詩であり音楽ではありません。音楽を変えても具体的な対象が変わるわけではないことから、これは詩が単体で持っている役割であることが容易に分かります。

また、詩が表現する対象を入れ替えても音楽が持つ価値は基本的に変わらないことからも、このことが見てとれます。

つまり、詩の内容と音楽の内容は同一ではないということです。

第二に、音楽の旋律を通して具体的な対象を表すことができるという誤謬です。これは標題音楽的な誤謬といえるでしょう。

たとえば、上行する旋律と下行する旋律を組み合わせて、緩やかな波に揺れる船を表すなんてことはできないということです。

これはせめてシンボルとしては成り立つとしても、アートとしては成り立たないでしょう。時計が時間を象徴するからといって、時計が美しいとはならないでしょう。まるで象形文字と博物画を取り違えるようなものです。

音楽が模造しているものはなにか?

では、音楽というのは具体的な表現の対象がないのに、表現として成り立つ奇異なものなのでしょうか。

建築は材質の持つ物質としての根本的な能力とその均衡を対象としているといえるでしょう。水道美術はその中でも特に水を。

造園芸術は植物や自然を。動物画は動物それ自体を。彫刻は種族としての肉体の優美さを。抒情詩は知覚を(または音律と押韻によって時間の流れを)。戯曲は人間の個別の性格と行為の関連を。

音楽以外の芸術は客観的に存在するあらゆる現象に対応しているといえます。音楽だけは、客観的に存在する現象とは直接に結びつかないのです。

では、音楽はなにを模造しているのか?それは、残りのすべてです。この世界から客観的な現象を除いてもなお残るもの!客観から独立したあの唯一のものを!意志を!

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貴下の従順なる下僕 松崎より

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システム系の専門学校を卒業後、システム屋として6年半の会社員生活を経て独立。ブログ「jMatsuzaki」を通して、小学生のころからの夢であった音楽家へ至るまでの全プロセスを公開することで、のっぴきならない現実を乗り越えて、諦めきれない夢に向かう生き方を伝えている。